そばの世界

小判をくずして新そばを食べる江戸っ子の粋

さて、各地の新そばも出尽くして、
そばも、どっしりと、落ち着いた味となってきた。

今は玄そばの保存環境も良くなったので、
夏を越した古そばも、それほど、捨てたものではない。
むしろ、甘みが強く、味がしっかりとしているので、
下手に青みがかった新そばより、
味わい深かったりする。
だから、「新そば」の有り難さが、あまり、
感ぜられない時代になってしまったのかもしれない。

しかし、何と言っても、新そばの若々しさにはかなわない。
特に、食感はまったく違うもの。
毎日そばを扱っている者としては、
切り替わるときには、
その差を大きく感じる。

保存の設備がなかった時代には、
梅雨を超えると、そばは風味が落ちた。
子供の頃のそばを覚えているが、
色が赤っぽくなり、独特の蒸れたような臭いを持つことがあった。

だから、昔の人は、
新そばを心待ちにしていたのだね。


〜〜 新そばに小判をくずすひとさかり 〜

 
江戸の川柳に、こんな句があった。
新そばを食べるために、小判をくずした、
つまり、小銭に換えた、それが一悶着、というわけだ。

江戸時代には、今と違って、
ちょっと複雑な貨幣制度になっていた。
小判などの金(きん)と、銀の貨幣、
そして銅銭といわれるものが、
それぞれの別のレートがあって、
その商売にあった貨幣が使われていたという。

だから、そば屋でそばを食べて、
一両小判を出したところで、お釣りなんぞ出てこない。
あらかじめ両替商というところで、
文(もん)という銅貨に換えて置かなければ、
そばを食べられないことになる。

さて、小判一枚で、つまり一両で、
そばがどのくらい食べられたかというと、
これが、なかなか。
江戸時代後期には、一両は6500文に交換されていたという。
その頃のそばは、一枚16文と決められていた。
ということは、、、

なんと、400枚ものそばが食べられることになる。
もっとも、その頃のそばの盛りは、
今よりずっと少なかったらしい。
それでも、一回三枚ずつ食べても、
百回以上は、そば屋に行けることになる。

小判一両って、価値があったのだねぇ。

おそらく、普通の町民は、小判なんぞ待っていなかったろう。
親の遺産か、なにやらの報奨で手に入れた、
虎の子の小判。
それを、新そば食べるためにくずしてしまおうというのだ。
さすがに江戸っ子、粋だねえ。

当時の人には、
「新そば」という言葉は、
それほどの価値があったということなのだろう。

それに引き換え今は、、、
なんて野暮な話はやめておこう。
今なら1万円札でもお釣りが貰えるし、
カードやスマホでも、支払いができる時代。
気楽にそば屋を楽しんでいただけたら、、、と思う次第。

 

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製粉屋さんは「設備産業」?でも、職人技も必要。

この春に、
店のスタッフの研修ということで、
いつも世話になっている製粉屋さんの、
工場を見学させていただいた。
そして、改めて、
そばを粉にする、
いや、いいそば粉を作るために、
ずいぶんとたくさんの手がかかっていることを、
みんなで実感したところだ。

この製粉屋さんは、
何十年も続く、業務店向けのそば粉を作っているところ。
地元長野のそば屋さんばかりでなく、
東京のそば屋さんにも、
数多く出荷している。
製粉工場とすれば、小規模というが、
それでも、なかなかの広さと大きさがある。

工場の三階には、まず、
玄そばを加工する設備がある。
玄そばを、様々な方法で磨いて、
ゴミや不純物を取り除かなくてはならない。
それから、皮を取りのぞき、
その皮を分離する。
そのための機械も、何種類もあり、
どれがどう動いているのか、見ただけではよくわからない。

その機械の間には、
幾つものシフターがあり、
粉をより分けている。
シフターというのは、機械式のフルイのようなもので、
網の目によって、
何段階にも粉や粒を選り分けることができる。
それが横に休みなく動いているので、
見ていると、建物全体が揺さぶられているような気がしてくる。

そうして皮を剥かれたり、
大割れといって、粗く砕かれた実が、
石臼によって挽かれていく。
二三十台もある大きな石臼が、
ゴロゴロ回って、粉を作っている光景は、
なんとも圧巻だ。

それでも、一回の回転で、
石臼の端からこぼれ落ちる粉は、
僅かなもの。
それを、石臼と一緒に回っているハケが、
かき集めていく。

天井には、
空気圧で粒や粉を運ぶ、
銀色の管が、複雑に絡み合っている。
そして、とにかく、音がやかましい。
せっかく説明してくれている、
社長さんの声も、
ほとんど聞こえない。

最後には、
粉はそれぞれの製品に分けられて、
手作業で袋詰されていく。

なるほどねえ、
とにかく、
倉庫に山と積まれている玄そばが、
そば粉になるまでは、
じつに、じつに、
たくさんの機械を通り抜けているのだ。
品質を上げるために、
以前に見せていただいたときより、
設備の数が増えている。

あとで、事務所で社長が言っていた。
とにかく、機械にお金がかかると。
特別な機械だから、
割高になってしまうのだね。
「でも製粉屋は、設備に投資しなければやっていけない。」
のだそうだ。
しかも、
そばの製粉は、
小麦と違って、完全なオートマチックでは出来ないのだそうだ。
玄そばは、産地や生産者による、
品質の違いが大きいのだそうだ。
そういうことを、微妙に調整しながら粉にしていく。
常に、眼で見て、手で触って調整をしていく、
職人技が必要だという。

そういう社長さん、
そうとうガンコが入っているなあ。

ということで、
いつも使っているそば粉も、
それだけの手をかけられて作られていることを、
忘れないようにしなければね。
そういうことを踏まえて、
私は、いいそばを作らなくては、、。

ブログを書く時間がなくて、
すみません。
いつの間にか、畑の周りのニセアカシアの花が咲いていたりして。

 

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なんでこんなに元気な高齢者の方がいらっしゃるのだろう。

今日来られたお客様は、
なんと85歳なのだそうだ。
お一人でいらして、
40分ぐらいの間に、
生ビール三杯と、
そばを二枚平らげて帰って行かれた。

ふう、お元気だなあ。

ということで、
元気なお年寄り、
いや、高齢者の方が増えているのだね。

ここ長野では、
住人の、なんと、三人に一人は、
60歳以上と言われている。

そう言っている私も、
その仲間。
でも、まだまだ、
そのほんの入口に差し掛かっただけなのだが。

月に一度の俳句の会でも、
80歳代の方々と顔を合わせるが、
皆さん、お元気だ。
作られる俳句も、
前向きなものが多い。

友人のお父さんなんか、
その米寿のお祝いに、
高速道路を自分で運転して、
駆けつけてきたそうだ。
米寿って、88歳のことだよね。

そういう方々と接して感じるのは、
気持ちが若々しいことだ。
年をとると、
どうしても、若い頃の事ばかり語ったり、
人の悪口ばかり言う人もいる。
身体の衰えを感じたりすると、
どうしても、そんなことを言いたくなる、
そんな気分になってしまうものだ。

そんなことも気にせず、
元気さを感じさせてくれる方々もいるのだ。

その元気の源は、
おそらく、毎日の食事だろうなあ。
けっして、薬やサプリメントだけではないはずだ。
いろいろなものを食べて、
規則正しい生活を送ることが、
そんな暮らしの繰り返しが、
大切なことかもしれない。

そして、そばを食べることもね。
どこかの観光地のキャッチフレーズではないけれど、
そばを食べて「死ぬまで長生き」しなければね。

、、いや、「死ぬまで元気に長生き」かな。

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真田信繁(幸村)はそばを食べたか食べないか。

1月に群馬に行った時に、
かねてから気になっていた町、
沼田に寄ってきた。

沼田は、真田信繁(幸村)の父、
昌幸がこだわった土地だ。
家康に盾を突いても、
この場所を守ろうとしたのだ。
(第一次上田合戦)

去年、放送された「真田丸」というテレビドラマのお陰で、
ここ沼田も注目を浴び、、、、
たのかどうかわからないが、
そのドラマをテーマにした展示施設が開かれていたりした。
そのドラマ、
私は、一話も見ていないのだけれど。

なるほど、
沼田の町は全体が高台にあり、
西と北を見下ろせる。
北側には、
上越国境の山々がそびえ立つのが望まれる。
越後から関東に入るには、
ここを通らなければならない要所だったのだね。

そこで、昌幸は、ここを押さえておきたかったのだ。

ということはともかく、
そばの話だ。

真田信繁は、大阪夏の陣で討ち死にしたのだから、
1615年に亡くなったことになる。
さて、信繁は、そばを食べたのだろうか。

前にも書いたのだが、
記録に残る限り、今のようなそば、
つまり「そば切り」というものが現れたのは、
1572年。
長野県は木曽のお寺で、そば切りを振る舞ったそうだ。
それ以降の記録は、
近江のお坊さんが江戸でそば切りを食べたという、
1614年。

つまり、信繁は、
食べようとすれば、
そば切りを食べることができた時代にいたことになる。

もっとも、その頃の「そば切り」が、
どのようなものであったのか、
確かめようがない。
まだ、醤油が広まっていない時代なのだ。
どんな食べ方をしたのだろう。

江戸でそば切りが盛んになり、
今日のようなスタイルが出来たと言われるのが、
1700年台の半ばになってから。
だから、高野山の麓に蟄居させられていた信繁が、
そんな手間のかかる食べ物を、
わざわざ食べたのかは、
まったくわからないのだ、、、。

子供の頃にラジオで聞いた講談話というのは、
意外と覚えているもので、
信繁の兄、信之の妻の小松姫が、
ここ、沼田の城で、
敵方となった、昌幸、信繁を追い払う話なんぞ、
なんとなく目に浮かぶ。

沼田城には五層の天守閣があったそうだ。
それも、後に改易となった時に、
幕府によって取り壊されたとか。
私が行った時は、
とにかく深い雪で、
どこに何があるのか、よく解らなかった。

なにぶんにも、
歴史というのは朦朧としたものがあり、
なかなか、こうだとは言い切れないことが多い。
また、そこが、想像を巡らすことのできる面白さかも。

信繁は、そば切りを食べたのかなぁ。

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昨年の全国のそばの収穫量は18%減少。

昨年のそばの収穫量の統計が、
農林水産省から発表された。

それによると、
昨年のそばの収穫量は2万8500トンとのことで、
前年から18%減っている。
その割合を産地別に見てみると、
北海道が圧倒的な量を作っていて43%、
そして茨木7%、山形6%、長野6%、福井5%と続いている。

折しも昨年、一昨年は、
そばの業界でもいろいろと駆け引きがあったようで、
どこの粉屋さんも、質のいい玄そばを手に入れるため、
大変苦労をされたようだ。

昨年は、北海道も台風の被害にあい、
幾つかの産地では、収穫量がだいぶ減った。
また、長野でも秋の長雨の影響で、
ほとんど収穫できない畑も多かったと聞く。

北海道では、前年の77%の収穫、
長野県は76%とのこと。

それでも、そのくらいの減少ならば、
なんとかなるだろうと思っていたら、
もっと、重要な問題が、、、。

農産物の収穫量はよく、
耕作地10アールあたり、
どのくらい採れたかで比較される。

その10アールあたりのそばの収穫量は、
全国で、平均収量の82%。
つまり、同じ畑からいつもの年の、
五分の四の量の収穫しかできなかったんだね。

それが、北海道では77%、
長野では66%ということになる。

これがどういう意味かというと、
当然、採れた玄そばの質の低下を招くことになる。
豊作のときには、そばも元気よく育っているので、
勢い、質の良いものが多い。
でも、育ちが悪い時には、
どうしても、それなりのものになってしまうのだ。

挽いてみて、良い粉が採れないとのことで、
長野産の粉の出荷を、
取りやめてしまったそば粉屋さんもあるそうだ。

そんな状況の中で、
私のようなそば屋も、
それなりに選択を強いられていくのだね。
頑張って、質の良いそば粉を手に入れていくか、
それとも、そこそこのものを使って、営業を優先するか。

実は、昨年初めに、
そば粉が大幅に値上げになったのだが、
そのまま様子を見ていた。
この分では、元に戻りそうもないし、
安い外国産に頼っていた大手が、
国産そば粉を使い始めるという混乱もあるし、
その点を考えなくてはいけない時期に来ているのかもしれない。

こんな時に思い出すのが、
高田渡さんの「値上げ」という歌。
う〜ん、耳に痛いなあ。

Utiba2