手打ちそば屋は眠れない

雪の峠を越えて〜スペイン、サンティアゴ巡礼

あれ、雪に変わってしまった。
これはどうしよう。

スペイン、
カミーノ・デ・サンティアゴの巡礼の道を、
アストルガという街から歩き始めて二日目。
その日は、標高1500メートルの峠を越えて、
17キロ先の町まで行く予定だった。
でも、宿泊したアルベルゲ(巡礼宿)を出て、
1時間もしないうちに、
降り続いた雨に、雪が混ざるようになった。

道は農道のような平らな道から、
坂の急な山道となっている。
しかも、真ん中を、降ったばかりの雨が、
勢いよく流れているので、
靴を濡らさないようにしなくては。

林の中を少し進めば、
片屋根のついたベンチがあり、
ここで雨具のまま一休み。
他に歩いている人もいない。
とにかく、前に向かって、
歩くより他はないのだ。

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さらに、進んでゆけば、
湿った雪が、容赦なく積もってくる。
森を抜け、舗装道路に出た頃には、
もう15センチ以上となっている。
しかも、強い風だ。

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やっと、いくつかの建物の見える集落に入っていった。
バルやレストランの看板があるが、
まだシーズンオフのこの時期は、
何処も開いていないのだ。

どうしようか。
この雪と風の中を、
あと10キロ以上の山道を、
越えることができるだろうか。
しかも、私の携帯電話が使えなくなったので、
何かあった時にも、
連絡もできないし、
自分たちの位置も知ることができない。

その時、一台の白い乗用車が、
集落の上から下ってきた。
立ち止まっていた私たちの前を通り過ぎると、
少し下で、雪の中をブオンブオンと唸らせながらUターンしてきた。
そうしてね、
運転していたおじさんが、
手真似で、ついてこいと言うんだ。
嬉しかったね、この時は。

車を停めたおじさんの後について、
吹き溜まった雪を踏み締めていくと、
たどり着いたのは、一軒のアルベルゲ(巡礼宿)なのだ。
時刻はまだ、12時前。
立ち往生していた私たちのために、
早めに開けてくれたのだね。

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道から少し離れているし、
降ったばかりの雪に、
足跡もなかったから、
案内をされなかったら分からなかっただろうなあ。

とにかく、風の強い吹雪の中から、
暖かい建物の中に入っただけで、
ほっとした。

おじさん、大きな薪を持ってきて、
ストーブの中に入れてくれる。
寝室は大部屋で、
30人ぐらいは泊まれる二段ベットがあるが、
所々に仕切りがあって、
明るく、清潔なところだ。
前日の、薄暗い、湿った感じの宿とは、
全く違っていた。

持参の寝袋を広げて、
自分のベッドを確保する。

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落ち着いたら、
ビールで乾杯。
今日はたった6キロしか歩かなかったが、
とにかく無事でよかった。

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そうこうしているうちに、
同じように、雪に痛めつけらた巡礼者たちが、
次々とやってくる。
他の施設がまだ休業中なので、
電話で確かめてからくる人が多い。

湿った雪で、靴を濡らしてしまった人いて、
用意されていた新聞紙を使って、
乾かしていたりした。
あっ、なんだ、日本と同じなのだ。

夕食は、おじさんの作ってくれた、
牛肉のステーキで、泊まった12人が一緒に食べた。
付け合わせの、ポテトの量の多いこと。
私は食べきれなかったけれど、
他の人たちは、みんなペロ。

ドイツ人なのに、アルゼンチンで、
医者の勉強をしている女性。
アメリカはフロリダからきて、
スペイン語は苦手と言いながら、
すごい勢いで話す、
これも一人旅の女性。
そして私と同年代の、
スペイン人で、俳句を作ると言うジョン。

この夜は、他の人のいびきも、
気にならずに寝られたような気がする。

次の朝も、まだ雪が降っている。
携帯電話が使えないという私たちを心配して、
ジョンが一緒に歩いてくれるという。
彼は、学校の先生をしていて、
外国人にスペイン語を教えた経験があり、
しどろもどろの私の言葉にも、
辛抱強く耳を傾けてくれた。

安全を考えて、
山の中を歩く、
本来の巡礼路ではなく、
自動車の道路を歩くことにした。
もちろん、この雪で、通る車はないが。

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道路なので、登りはキツくないが、
雪の上を歩くのは、
思ったより、応えるものだ。
それが、後ろから、ものすごい勢いで、
追いついてきた人がいた。

「やあ、いい天気だね」
そんな冗談を、明るく言う。
とても背の高い、
体格の良いご夫婦。
聞いてみれば、スウェーデンから来たのだと。
なるほど、彼らには、この程度の雪は、
チョチョンのチョイなのかもしれない。
あっという間に、吹雪の中に消えてしまった。

標高1500メートルには、
鉄の十字架と呼ばれるモニュメントが建っている。
ここに、自分の暮らす場所の石を、
願い事を書いて置くといいという。
そんな、想いのこもる場所なのだね。
だけれども、そこは、風の通り道。
立ち止まることなく、通り過ぎることに。

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そこからは下りになるのだが、
それでも長い道だった。
ゴウゴウと音を立てた除雪車が通ると、
路面は平らになり、
歩きやすくなる。
でも、滑りやすくなるのも事実。

この雪の中で、牛が放牧されていてビックリ。

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少し下るだけで、雪の量が減っていく。
何回か歩いたことのあるジョンがいうことには、
この辺りの、山の景色は素晴らしいそうだ。

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やっと、山あいの集落に着いた時には、
雪は止みかけていた。
宿を予約しているというジョンと別れ、
唯一営業している、レストランの上の、
こじんまりとした巡礼宿に入る。
この巡礼宿も、
瞬く間に、雪の道に疲れた巡礼者でいっぱいになるのだが。

などと、日々、
緊張と驚きと、発見と後悔の連続。
スペイン、サンティアゴ・デ・コンポステェラの
巡礼の旅は、座席にしがみついて、
キャーキャー言っているだけの、
ジェットコースターに乗っているつもりでは、
あっという間に放り出されてしまう旅なのだ。

出会った人たちの、
思いもかけない善意に支えられていることもある。
特に、ずっと話し相手になってくれたジョンには感謝。
雪の中を救ったくれた、アルベルゲのおじさん。
一人で料理を作っているので、
手伝おうと入った厨房の整然さ。
雪の軒先で一休みさせてくれた小屋の、
子犬と、鳴き声しか聞こえなかった猫。

そんな語り尽くせない経験で、
とても贅沢な時間を過ごした旅だった、、かな。

 

20日かけて、スペインの巡礼路を歩いてきた。

この頃、どうも肩の辺が重くなって、
首を回すと、コキコキと音がする。
何やら、膝も曲げづらくなって、
時々、コキっと音がする。

そうか、
だから70歳のことを、
「コキ」と呼ぶのだねぇ。んっ。
ああ、そんな年になってしまった。

私の周りの同年輩の人たちにも、
元気なジジババが多い。
でもねえ、色々と、
健康上の悩みに突き当たっている人もいる。
中には、片道切符を持って、
どこかへ行ってしまった人もいる。

コロナ禍で苦しんだ私は、
まだまだ店を続けるべく、
日々、働き続けなければならない。

でもちょっと待てよ。
元気なうちに、やっておくべきことが、
残り少なくなった人生に、
あるのではないか。

店の仕事はもちろん 大切だが、
それ以上に、
今、やっておかなければ後悔することが、
山ほどあるのではないか。

その、うず高く積み上がった山の中から、
ほんの小さな塊をつまみ上げてみる。
そう、これならできそうだ。
何年も前から、いつかは、
と、密かに温めていたものだ。

これをやるのは、
今しかない。
店のお客様には迷惑をかけるかもしれないが、
思い切って、
「Enter」のボタンを押してみよう。

それが、
スペインのキリスト教の聖地、
サンティアゴ・デ・コンポステラを目指す、
巡礼の旅だった。

私はキリスト教徒ではないけれど、
異国の荒野を歩く、祈りの旅に心が惹かれる。
幸いなことに、スペイン語ならば、
少しは心得があるからね。

ということで、
いくつかあるこの巡礼路の中で、
フランス人の道の
最後の260キロを歩いてきた。
歩いたのは18日間、
前後を入れると25日という長い旅となった。

 

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頼る人もなく、
女将と二人だけで、
言葉も習慣も違う国を、
自分で背負えるだけの荷物で、
毎日毎日歩くのは、
思ったより、大変なことだった。

なにしろ、道は平らではない。
至る所に登りもあるし下りもある。
1日に、700メートル以上の標高差があることもある。

それに、前半の二つの峠を越えた時には、
大雪に恵まれてしまった。
よっぽど普段の行いが、、、
いや、良かったので、あの程度で済んだのだろう。

3月はまだ、巡礼の季節ではなく、
開いている宿も、レストランも少なかった。
目的地に着いても、宿が見つからなかったり、
朝から、夕方まで、食べるところが無かったことも。

1日平均15キロも歩けばいいと思っていたが、
宿のある街は、そう都合よく、散らばっていない。
時に、長い距離を歩かなければ。
なんで、こんなことをやっているのだと、
思ったことしばしば。

そんな苦労もあったけれど、
今思えば、とても、贅沢な時間を過ごせたのだと思う。
日々の暮らしから抜け出し、
全く違う景色、人、食べ物、
世界を体験できたのだから。

ということで、しばらく、
スペインのネタが続くかな。                                                                

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昔はそば屋の汁に、鰹節は使われなかった。

「おそば屋さんで、鰹節を使うなんて、
 もったいない、もったいない。」
もう、だいぶ前にお亡くなりになったけれど、
老舗の鰹節店のおばあちゃんが、
私が鰹節を買いに行くたびに、
そう言っていた。

東京の築地の卸店のご主人も、
ご自身のブログで書かれていた。
昔は、そば屋から鰹節の注文が入ることは、
ごく一部を除いて、無かったのだとか。

そば屋が使っていたのは、
さば節やそうだ節などの、
いわゆる雑節というもので、
使っても、せいぜい亀節(小型の鰹の節)ぐらいだったらしい。

昔のそば屋は庶民的な存在。
その中で、安価に美味しく食べるさせる、
工夫をしていたのだね。
それが高度成長の時代となって、
食べ物の質が問われるようになると、
そば屋でも鰹節を使うことが、
当たり前になったようだ。

ご存知のように、
そば屋の出汁の取り方は、少し変わっている。
厚削りの節を、長時間、
そこそこの火力で煮詰めて作る。
節の持つコクを引き出す作り方だ。

東京周辺では、本枯れという、
カビ付けけた節が好まれるが、
関西では、荒節というカビ付けしない節が、
多く使われるという。
合わせる醤油の違いにもよるのだろうね。

鰹節の産地は、鹿児島産が多く、
ついで静岡となる。
ちなみに、この頃は、
インドネシア産、フィリピン産も入ってきている。
これは、もちろん、日本の会社が、
より、カツオの産地に近いところで、
国内と同じような工程で作らせているのという。

ちなみに、鰹節作りは、
とても複雑な工程を経て出荷される。
人手も時間も必要な作業なのだね。
だから、多少値が張るのもうなずける。

さて、この鰹節、
とても困った問題がある。
なにしろ、元は生の魚だ。
どうしても、季節や個体によって、
変動がある。

だから、厚削りの様子を見ただけでは、
美味しい出汁が出るかは、
わからないのだ。

正直な節屋さんが言うことには、
ツユにして見るまでわかりません、
とのこと。
値段で仕入れてみて、
痛い思いをしたこともあったっけ。
だから、信用のおけるところから、
仕入れなければ。

ところが、最近、
お付き合いした地元の節屋さんが廃業。
言うことには、
「今どきの店は、節で出汁をとることはなくなりました。」
とのこと。
はて、またまた世の中の不思議が増えてしまった。
節からではなく、どのように出汁を取るのだろうか。
そもそも、出汁など使わないのかな、、、。

と言うことで、
「今どきの店」になれそうもない私は、
時間と手間をかけて、
節から出汁を作り続けるのだ、、、。

 

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そばは釜で茹でる。当たり前だけれども。

そばを茹でる時に使うのは、
昔ながらの羽釜(はがま)だ。
米を炊く時に使う釜を大きくしたようなもの。
と言っても、
釜もかまども見たことのない人が多いのだろうな。
へっついの上に載せるもの、
と言ったって分かるまい。
へっつい、つまり、カマド自体を見かけないものね。

あるお弁当チェーンのシンボルマークに、
そんな形があったっけ。
私の子供の頃には、
もう普通に、
電気釜やガス釜があったから、
実際に、知っている人は少ないことだろう。

とは言っても、
まだ、カマドの残っている家もあり、
また、様々な仕事をしているうちに、
私も何度か火を起こしたことがある。

カマドの火を起こすには、
ちょっとしたコツが必要。

釜の底は丸くなっているのだが、
下からただ火を燃やして炊けばいいものではない。
カマドが温まったら、
焚き口のすぐ外で、薪を燃やすようにする。
そうすると、炎は、カマドの中に、
まるで吸い込まれるように燃えていく。

そして、釜には手前斜めから、
火が当たるようになる。
そうすると、釜の中の湯が、
手前から温められるから、
向こう側へぐるぐると回るようになるのだね。
お米を美味しく炊くには、
これが大切だとか。

今、店でそばを茹でる時に使っているカマドも、
同じ原理。

薪やコークスで釜を炊いていた時代は、
火加減が難しかったが、
今は、ガスで、微妙な調整ができる。
しかも、空気を強制的に送って、
火力を強めた、特別なバーナーだ。

この火を丸い底の手前に当てる。
そうすると、湯はこちらから奥へと、
ぐるぐると回り始める。
そこへそばを放り込めば、
縦にでんぐり返しをして、そばが回っていくことになる。
こうして、均一にそばが茹で上がるのだね。

家庭で使うような平鍋で、
下から全体に火を当てても湯は回らない。
こういう鍋で茹でる時には、
箸や揚げざるで、そばを回してやるようにしなければ。

この時、火が強すぎると、
そばがそばが浮いてしまって、
湯の中を回らなくなる。
だから、火加減の調整が必要なのだね。

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少し前までは、多くのラーメン屋でも、
この羽釜がつかわれていた。
茹で上がった麺を、平たい網で救って、
どんぶりに分けるところなんぞは、
いかにも職人的な技だった。

ところが、今は、てぼと呼ばれる、
細長いカゴに入れて茹でるところばかりとなった。
てぼを掛けやすいように、羽釜ではなく、
寸胴型の鍋なんぞを、
それも、場所を取らないように、
四角い鍋を使ったりしているね。

あらかじめ茹でてある麺を、
温めるだけの立ち食い蕎麦屋でも、
このてぼは大活躍。
しかし、手打ちの生そばは、
このてぼを使って茹でるわけにはいかない。

湯量のある大きな鍋で、
強火で、短時間で茹で上げるのだ。
だから、昔ながらの羽釜が、
今でも使われているのだね。

業務用のそば釜には、
羽釜の外側を覆うように、
水のタンクがあり、
バーナーの火の予熱で温められる。

昔の釜は、近づくだけで、
熱を感じたものだが、
今は、エネルギー効率も上がり、
釜自体が熱く感じられることはない。

ところがねえ、
聞く所によると、
そば屋の看板を上げながら、
釜のない店も、近頃はあるのだとか。
時代の変化に、
ついて行くのは大変だね。

 

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馬籠峠は、外国人が歩いている。

中山道木曽路の妻籠(つまご)宿は、
古くからの街並みが残されている。
宿場町としての街並みを、
これだけ残せたのは、見事なものだと思う。

聞けば、住民全員で古い家を、
貸さない、売らない、壊さない、
という決まりを作り、守ってきたのだという。
今では、使っていなさそうな家も見かけたが、
庭も含めて、きちんと手が入っている。
だからこそ、江戸の街道の雰囲気を楽しむために、
多くの方が訪れる観光地となったのだね。

休みを使って、
以前から歩いてみたかった木曽路を、
南木曽駅からこの妻籠宿、馬籠(まごめ)峠、
馬籠宿、そして中津川駅まで歩いてきた。

まだ春浅い季節なので、
妻籠宿も、観光客は少なく、
閉じている店も多いが
韓国や中国から来られた方々が、
楽しそうに散策していた。

そこから2キロほど登ったところに、
大妻籠という数軒の集落があり、
どこも大きな建物で、民宿をしている。
泊まったのは、その一軒。
入れば吹き抜けに囲炉裏がある。

70半ばという、中々、口の元気なお婆さんが、
色々説明してくれる。
確かに部屋は昔ながらの座敷を仕切ったものだが、
ちゃんと内窓が入って、二重になっている。
ギシギシいう廊下を踏んで浴室へ行けば、
ここは新しくなっていて、木の浴槽が気持ちいい。
トイレなんぞは最新式で、
入るとフタが自動で上がったりする。

山の中で、とにかく自給自足で暮らしてきたそうだ。
だから、食事に出るお米は自家製。
ちょうど野菜のない時期であったが、
手作りの漬物や根菜類、
そして、岩魚や山女はその辺で獲れたもの。
なんと酒まで自家製で「ドブロク」が出た。

そして、その日の同宿人は、
浴衣からはみ出た足に、
すね毛のびっしりと生えた、
大柄の外国人カップル、ひと組。
食事の座敷に、ちょこんと正座している。
びっくりしたなあ。

英語は通じないようなのだが、
(こっちにも通じないが)、
後で聞いたら、イタリアから来たのだそうだ。
朝6時半の朝食に付き合うと、
一番のバスで、彼らは出て行った。
これから京都に行くそうだ。

失礼ながら、このようなディープな宿に、
外国人が泊まりに来るとは思わなかった。
そうしたら、けっこうやって来るとの、
おばあさんの話。
おばあさんも慣れたもので、
相手が分かろうが分かるまいが、
平気で日本語で説明したりしている。

さて、それからの話。
宿を出て、馬籠峠までの急坂を登り、
馬籠宿までのなだらかな坂を降っていったのだが、
その道で出会ったのは、三十人ぐらいかな、
それが、すべて外国人。
大きなリュックを背負って、
逞しい脚で、ザックザックと歩いてくる。

まだ肌寒いのに、Tシャツ一枚で歩いている人がいて、
身振りで寒くないかと聞いたら、
親指を立ててグッドだって。

そうか、馬籠から妻籠の間は
ゆっくり歩いても三時間。
この山道と、昔ながらの建物の姿が、
外国人を魅了するのだろうなあ。

馬籠宿は、流石に観光客が多い。
ここは山が開けて気持ちの良いところだ。
残念ながら、古くからの宿場の建物は、
何度かの火事で焼けてしまったので、
それらしく作ってあっても、
新しい意匠の入ったものだ。
それでも、観光地らしい雰囲気を抱え、
カメラを下げた人々が、
坂を登ったり降りたりいている。

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ところが、馬籠宿を出て、
旧中山道に入ると、観光客は、
あっという間にいなくなる。
そして、古い石畳の道を降れば、
後は中津川駅まで、普通の住宅街の中を、
クネクネと、そして登ったり降りたりの舗装道路。
この道が長いこと。

ところが、この道で行き会うのも、
やっぱりリュックを背負った外国人。
若い女性が、一人でカッカッと歩いていたり。
途中の喫茶店で一服したら、
店のボードに、訪れた外国人の写真がびっしり。
馬籠ばかりではなく、
この道も、外国人に歩かれているのだ。

コロナ禍が落ち着いて、
多くの外国人が日本を訪れている。
長野駅にも、大きなカバンを持った姿を、
随分と見かける。

三年前にスペインへ行った時にも感じたが、
以前に比べ、日本への興味を感じている人たちが、
多くなったようだ。
短い旅の中で、日本へ行くというスペイン人に、
三人も出会ったのだから。

なんでも、ある国のドキュメンタリー番組に、
この馬籠峠が紹介されたとのこと。
だから、こんなに欧米系の外国人が多いのか。
それにしても、日本でも、
何度もテレビで紹介されているのに、
なんで、日本人と合わないのだろうねえ。

でも、ありのままの日本を、
多少の不便は感じても、
それをかえって楽しんでいるような、
そんな旅を、彼らはしているのだろうねえ。
そんな価値観の違いも、
私たちは受け入れてあげよう。
こんな私の店に来る、
勇気ある!外国の方々を、
暖かく迎えてあげよう、無理のない程度でね。

 

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十割を打つには、特別の技があるわけではない。

そばうちを趣味にしていらっしゃる方も多いようで、
先日も色々と質問をされる方がおられた。
なんでも、二八で練習しているのだが、
十割のそばを打てるようになりたいとのこと。
ついては、十割で打てるコツがあるかとのこと。


私は別に、二八だろうが十割だろうが、
打ち方に変わりはないと思っている。
ただ、十割で打つ時のそば生地は、
二八に比べて伸びにくいので、
無理な力をかけると、切れたり穴が開くことがある。
だから、ていねいに、基本通りに伸ばさなくては。


そのためには、木鉢で、均一な水回しと、
しっかりとした捏(こ)ねができていなければならない。
逆にいうと、二八そばで、基本的な打ち方ができていれば、
十割でも自然に打てるはずだ。


私自身、週に一回「粗挽き十割そば」の日を設けているのも、
そんな基本の打ち方ができているか、
自分で確認するため。
人間、すぐに怠けるからね。
(あっ、私だけか。)


十割は湯ごねにする方もいらっしゃるけれど、
湯ごねにすると食感が変わるので、
まあ、その方の好みだろうね。
ただ、更科粉や粗い粉を打つときには使うので、
覚えておいた方がいい技術。


そばに使うつなぎ粉は、小麦粉が使われるが、
その種類も多い。
パンや、うどんに使われるような、
香りの高い小麦粉は、そばには向かないようだ。
つなぎ粉が足らなくなったからといって、
家庭用の小麦粉を混ぜても、
うまくいきませんよ。


前にも書いたけれど、
十割だからうまいとか、
高級だとかいうことはない。
むしろ、端正に打たれた二八そばの方が、
はるかにそばのおいしさを味わえると思う。
そばらしい、手繰り上げる醍醐味を楽しめる。


だから、角の立った、
キレの良い二八そばを打つことに努めましょう。
そうすれば、十割でも、
すんなりと打てるようになるはず、、、。

 


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そばとウクライナ紛争との影響は。

全世界での生産量は290万トン。

これはトウモロコシの11億5千万トン、
小麦の7億6千万トン、
米の4億8千万トン
に比べれば全く微々たるものだ。

統計の出ている2018年の数値では、
生産量の順位は、
1、中国」 113万5千トン
2、ロシア 93万7千トン
3、フランス 18万8千トン
4、ウクライナ 13万7千トン
  ・
  ・
  ・
10、日本  2万9千トン

これ、もちろん、そばの生産量の話。
この年は、たまたま中国がトップになったが、
その前の年まで、
ずっとトップにいたのは、ロシアの方だ。

日本の国内でのそばの需要は、
約13万トンと言われている。
国産は3万トン弱しかないので、
残りの10万トンは輸入されている。
そのほとんどが中国からだが、
ロシアからも年に1万トンを買っている。

ロシアはそばの生産量が多いのだから、
もっと取引があっていいはずなのだが、
そうもいかないようだ。
ロシアでは、主に、
そばの実のお粥(カーシャというらしい)や、
パンケーキにして食べられているという。
ところが、同じそばでも、
なかなか、日本の蕎麦に向くものが、
少ないそうだ。

それでも商社の方々が苦労して、
ロシアからの輸入が始まったのが、
10年ほど前のこと。
あまり質が評価されないので、
主に加工用として使われているという。

ロシアとウクライナを巡る、
不幸な出来事の勃発によって、
日本のそばの事情に影響するのではないか、
ということを心配される方も、
いらっしゃるようだ。

でも、数字で見れば、
このような状態なので、
普通に店で食べられるそばには、
ほとんど影響がないと、
考えていいのではないかな。

むしろ、問題なのは、
ここ一、二年で外国産、
特に中国産の輸入蕎麦粉の価格が、
急上昇しているのことだ。

これは、その国の事情もあるが、
世界的に、輸送コストが上昇しているという理由がある。
そう、コンテナ不足や、
燃料費の高騰などだ。

今度の紛争が、
さらに、そういう事情に拍車をかける、
という可能性はある。
だから、日本のそば業界も、
恐れをなしているところらしい。

今まで、安価な外国産の蕎麦粉を使っていた、
値段で勝負していたような店は、
値上げ対応を迫られるかもしれないね。

今まで、高くとも、
国産の蕎麦粉を使い続けていた私としても、
黙ってはいられない。
つい、ざまを見ろ!
と言いたいのだが、
そんなことは口が裂けても言ってはいけない。
(ここ、消しておいてください)

今の日本は、多くの食品を、
外国の産物に頼っている。
だから、何か変事があったときには、
大きな影響を受ける可能性があるのだ。

日本の国の中では、
まだまだ、たくさんの食物を作る余力があるのに、
どうして、
遠い外国で作られたものの方が、
安く手に入るのだろう、、、。

そういうことを、
根本的に、考えなければね。
いや、考えるだけでなく、
改善していかなければ、、、。

みなさん、
国産のそばを食べましょうね。

 

 

 

 

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「そばの花」は秋の季語。

ご存知のように、今、そば屋を含めて、
外食産業は、大きな危機を迎えている。
何かを書こうとすると、
つい、誰かを責めたり、
愚痴をこぼしてしまったり、
ということになるので、何も書けなかった。

ということを言い訳にして、
ブログの更新をさぼってしまった。
すみません。

長野ではもう、そばの花が咲き始めたようだ。
先日、信濃町方面に行かれたというお客様が、
そうおっしゃっていた。
北海道では、もう収穫が始まっているらしい。
そう、もうじき、新そばの季節。
気持ちを切り替えて、
前を向きたい、、、ところ。

ということで、そばの花の俳句なんぞ。

 


「蕎麦はまだ花でもてなす山路哉」
            芭蕉

そばの花と言っても、
見たことのない方にはわかりづらいようだが、
白い花が一面に咲き誇っているので、
一度ご覧いただくと理解いただけると思う。

 

「信州の浄土の白さ蕎麦の花」
          鷹羽狩行

そばの花の白さは、確かに目を引くようだ。
陽に照らされ、遠景に山でも入れば、
さらに、清らかに美しくも見えるだろう。
浄土のようにというぐらいだから。
でも、それは、都会から来る旅人の目。

 

「しなの路やそばの白さもぞっとする」
           一茶

信州育ちの一茶にとっては、
そばの花の白さは、
来たるべく雪の世界を想像させる。
その冬の厳しさに、今からゾッとしているのだね。

 

「暮れても蕎麦の花があり月があり」
           荻原井泉水

この句を読むと、
夜の桜もいいが、月に照らされたそばの花も、
なかなか風情を感じさせる。
そばの白さは、薄暗闇にも、浮くような気がする。

 

「秩父路や天につらなる蕎麦の花」    
           加藤秋邨

そばの産地として知られる秩父。
山の上の方までそばを栽培していたのだ。
今では見られない、少し昔の光景だろう。

 

「いかめしき門を這入れば蕎麦の花」
           夏目漱石

屋敷の中で、そばを栽培していたのだろうか?
鑑賞用に植えることはないと思うので、
そばの畑があったのだろう。
漱石の時代には、まだ武家屋敷が残っていて、
屋敷内にそこそこの畑があったのかもしれない。
そばを育てるなんて、いかめしい門のわりに、
庶民的な主人なのかもしれない。

 

最後はやっぱり、もう一度、一茶。

「そばの花江戸のやつらがなに知って」
               一茶

厳しい山国の暮らしも知らず、
何を言ってやがるんだ、江戸の奴等め。
いいなあ、一茶の、この意地っ張りなところ。

信州では、今を盛りのそばの花。
機会があれば、ぜひ、眺めていただき、
一句なんぞを、、、。

 

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石臼には、目がある。ならば、、、。

さて、江戸時代の終わり頃、
今から160年ほど前のこと、
江戸には4000軒近くのそば屋があったという。
当時の人口、およそ120万人と比べてみても、
かなりの数だろう。

まだ動力の無かった時代。
そばは、人間の力で粉にされていたらしい。
そば屋には、調理場の他に臼場という場所があり、
そこで、職人たちが一日中、臼を回していたという。
一つの臼で挽けるそば粉の量は知れているので、
一軒のそば屋だけでも、
何人もの人足を抱えていたことだろう。
とすると、随分の人数が、そば屋の営業に、
関わっていたことになる。

そのころの江戸では、
西部の中野にそばの問屋があったそうだ。
江戸に入るそばは、一度中野に集まり、
ここで、皮を剥かれたそばの実が、
江戸中に配られたという。

ここを流れる神田川を使って、
水車による製粉も盛んだったそうだ。
もっとも、水車は突き臼による製粉となるから、
そばにはあまり向かなかったらしい。

それにしても、手回しで、
そば粉を作る作業は、大変な労働だったことだろう。
明治になって、動力が普及すると、
一気に機械製粉が広まった。
効率の良いロール式製粉も行われるようになって、
石臼は次第に使われなくなってきた。
石臼を回していた職人たちも、
仕事を失ったに違いない。

そうして、役目を終えて捨てられた石臼を、
哀れに思った人もいる。
製粉の盛んだった中野にある、
宝泉寺には、その石臼を祀った、
「石臼塚」というものがあるそうだ。
食べ物を扱った道具が、見捨てられているのを見て、
心を痛めたご住職が、
昭和の初めに作られたのだそうだ。

一時は廃れた石臼製粉だが、
近年見直され、質の良いそば粉を作るために、
製粉工場でも、使われるようになった。
そば粉でも、量より、質を求められるようになってきたのだね。

よく、昔と同じように、小さな石臼で、
手で挽いたそば粉を使った方がうまい!
とおっしゃる方もいる。
そういう方法で、そばを作っている店もあり、
それはそれで、味わい深いものだ。
でも、それを、毎日食べろと言われると、
私は、ちょっと引いてしまう。

今は、製粉の技術が発達し、
昔より、はるかに質の良いそば粉が、
手に入るようになった、、と思う。
そばを挽くというと、
石臼ばかりが頭に浮かぶが、
実は、その前後にも、とても手間のかかる作業があり、
そばの製粉は、その複雑な工程の組み合わせなのだね。

製粉工場に見学に行ったら、
グルグル回る何十台もの石臼に、
一つだけ、逆回りに動いているものがあった。
聞いてみると、石の目がそうなっているののだそうだ。
なるほどねぇ。
石の目の方向まで考えているのだ。

石に目があるのなら、
きっと、耳や、鼻もあるに違いない、
などと、進歩のないことを考えていたりして、、、。

 

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「そばなんて、大嫌いだ!見たくもない!」

製粉屋の社長さんが嘆いていた。
この頃はソバを挽くための、
石臼になる石が、手に入りにくくなっているらしい。
今は、墓石さえも、
中国や韓国から輸入されている時代。
質の良い石を切り出している、
国内の業者さんが、なくなっているのだそうだ。
ましてや、ただでさえ需要の少ない、
業務用の石臼を、切り出してくれるところがないという。
大きな声では言えないが、
外国産の石臼も、
既に使われているらしい。
ソバをめぐる世界も、
どんどん国際化が進んでいるのだね。

今のような石臼が使われ始めたのは、
江戸時代半ば以降だといわれている。
溝を切ったを石を上下に合わせて、
回転させることによって、粉を得るという
とても合理的な方法だったのだ。

ここ長野でも、
昭和の初めの頃までは、
石臼は、嫁入り道具の一つだったと言う話を、
聞いたことがある。
特に長野のある、善光寺平は、
昔は麦の産地であり、
小麦を挽くのに使われたのだね。

そして、長野独特の食べ物である「おやき」や、
すいとん、薄焼きなどにして食べられたと言う。
だから、長野は今でも、全国の県庁所在地の中では、
家庭での小麦粉の消費量が、トップなのだそうだ。

もちろん、この頃は、家庭で石臼が使われることはない。
古くから住んでいるお宅に伺うと、
この石臼が、庭石や飛び石に使われているのを、
多く見かけるので、やはり、
各家庭にあったもののようだ。

石臼がソバを挽くのに使われたのは、
主に、小麦の採れなかった山間部のようだ。

若い頃働いたホテルで、年配の人たちに、
いろいろと話を聞いた。
そのうちの、戸隠から来た人は、子供の頃は、
とにかく、そばばかり食べさせられたと言う。
普段食べるのは、つなぎ粉のない十割で、
ボソボソのそばを、味噌汁の中に入れて食べたそうだ。
全く美味しいくなかったらしい。

それが、何かのハレの日、
つまり、お祝いや祭りのあるときには、
小麦粉を買ってきて、つなぎに使った。
その時は、ツルッとしたそばが食べられて、
それは美味しく感じたと言う。

戸隠そばは、いまでも七三が基本。
もちろん、店によって違うが、
そば粉二杯に、小麦粉一杯という割だ。
つなぎを入れたそばを打つことが、
戸隠の人にとっての、おもてなしなのかも知れない。

家では、夕食後、子供たちが、
次の日のそばを、石臼で挽くのが習慣だった。
いくらグルグルと回しても、
そばは、少しづつしか粉にならない。
眠いのと、退屈な作業に、
嫌で嫌でたまらなかったという。

だからね、
長野周辺の山の中で育った人の中には、
「そばなんて、大嫌いだ!
 見たくもない!」
という人が、結構いるのだ。
そう言う人に何人も会ってきた。
口にはしないけれど、
そばは金を出して食べるものではない、
と思っている人も、たくさんいることも事実だ。

もっとも、そういう経験をされたのは、
もう、かなりのご高齢の方々ばかりだが。

長野はそばの産地と言うけれど、
実は、そんな事情もあって、
独自のそばの文化が、あまり育たなかったような気がする。
自分たちでそばを楽しむというよりも、
それしかないから、仕方なしに食べていた、
いや、食べさせられていたのだね。

石臼の話を書こうと思って、
脱線してしまった。
それは、またの機会に。

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