
ーー鴨居玲の絵は 「理解する絵」
ではなく 「感じる絵」です。ーー
有能なAI君に、鴨居玲(かもいれい)の説明をお願いしたら、
こんな文章が出てくる。
おお、AI君よく分っているではないか。
と言っても、君のことだから、
誰かが言ったことの、受け売りだよね。
たしかに、鴨居玲の絵は、
登場人物の目はうつろだし、
口は半開き。
背景は暗い色のベタ塗りだし、
どこにも明るいところがない。
でもねえ、なにか心の中に、
入り込んでくるものがあるのだ。
若い時に、東京の展覧会で、
新進の画家を紹介する企画があった。
たぶん、安井賞の受賞作品展だった様な気がする。
その時に、何点かの印象に残る作品の一つが、
鴨居玲のものだった。
その時は、名前すらも覚えず、
ただ、サイコロと不思議な表情の男たちの姿が、
なんとなく心に残ったのだ。
のちに、旅の途中の、金沢の美術館で、同じ様な絵に出会い、
それが、鴨居玲の作品であることを知った。
そして、金沢の出身であり、
フランスやスペインで製作を続け、
帰国後、五十代の後半に、
自ら死を選んだといわれる画家だと聞いたのだ。
決して分かりやすい絵ではないが、
私には、グッと引き入れるものを感じるのだ。
けっして、作品数も多くないし、
それほど名の知られた画家ではない。
ほとんど展覧会も開かれないが、
私には、わざわざ脚を運ぶべき画家となった。
そして、この3月に、金沢、石川県立美術館で、
「没後40年鴨居玲展・見えないものを描く」
が催されたのだ。
前回の、没後30年展から十年ぶり。
行かないわけにはいかない。
私は普段から行いのいいつもりだが、
なにしろ、一緒に行く人が、極めてよくない。
悪い予感がしたのだが、
新幹線の駅を降りた金沢は雨降り。
せめて、私の行いがいいから、
大雪にならなかっただけ良しとしよう。
外国人観光客も多い、市内を循環するバスから降りて、
雨の坂を登れば、
観光地とは違う、静かな空間が待っている。
65歳上は割引になるというので、
証明書を用意していたら、
受付の女性は、顔を見ただけで、割引券を出してくれる。
あ〜あ、これが自分の現実なのかと、
やや、沈んだ気分で展示室へ。
すぐに、鴨居玲の、その独特の世界に、
引き込まれるのだ。
人物の目は、どこを見ているのか。
こちらでもない、あちらでもない、
何か、見えないものを追っている様に見える。
そして、圧倒的に、見るものへと、
迫ってくるものがある。
この、圧力に耐えることができてこそ、
少しでも、彼の世界に近づくことができるのだろう。
今回は、スペイン時代の作品は少なかったが、
後半の、試行錯誤していた時代の様子が窺える。
そして、彼は、何枚もの自画像を描いているのだ。
友人に送ったというパレットにも、
厚く盛られた色とりどりの絵の具の真ん中に、
自身の肖像を描いている。
半分、口を開けた状態のね。
多くの画家が自画像を描いている。
オランダの画家レンブラントは、
華やかな売れっ子時代から失脚し、
スキャンダルまみれになって小さな家に暮らした晩年、
自画像を、繰り返し、繰り返し、同じキャンパスに描いていたという。
スペインの宮廷画家であったゴヤも、
その浮き沈みの激しい人生のおりおりの、
自らの姿を描いている。
そして、自らの持つ傲慢ささえも描き切っているのだ。
あの素人画家のアンリー・ルソーでさえ、
微笑ましくなる様な自画像を描いている。
でもね。
自分の姿を描くって、
とても辛いことではないのかなあ。
などと、私は思う。
というのは、
若い頃、鏡に映る自分の姿を描こうとして、
投げ出したことがあるからだ。
たまたま、絵を勉強している人と知り合って、
ちょっと、デッサンを教えてもらったのだ。
その人の勧めるには、鏡に映った自分の顔を、
モデルにするのが手っ取り早いという。
ところが私ときたら、自分を描くどころか、
鏡を投げ飛ばしたくなる衝動の方が大きくてたまらない。
自分の姿を見つめるのが、苦しいのだ。
その人に話したら、
だったら、左手を描けばいいよ、とのこと。
どんなにデッサンの勉強をしても、
自分自身を描けない私は、
画家にはなれなかっただろうなあ。

鴨居玲は、日々デッサンを怠らなかったという。
少し展示されていたが、
風景や、犬のスケッチなどは、
とても洗練されている気がする。
その延長で、自画像も描いていたのだろうか。
彼の作品のモチーフの一つに、
腹を突き出した、赤ら顔の酔っ払いがある。
そこに、自分の顔を載せた作品がある。
胸には、金ピカに光る、
勲章の様なものを飾り付けている。
でも、よく見ると、
それは、ビールの王冠なのだ。
とても、自虐的な、
ある意味では、卑屈な表現ともいえる。
きっと、彼がもっと長生きしていれば、
違う表現方法を見つけて、
心に突き刺さる様な絵を、
キャンパスに叩きつけたのかもしれない。
この美術館の、常設展まで回ったので、
思いの外の時間を過ごした。
外に出れば、
日頃の行いの悪い同行者のおかげで、
依然、雨が降り続いている。
すぐ近くの大名庭園、兼六園に入ってみることにする。
入り口には、なんと65歳以上無料との表示。
窓口に顔を出したら、年配の女性は、
メガネの奥から私をじろっと睨み、
「年齢の分かる身分証明書を出してください。」。
そう、これこそが正しい反応なのだ。
兼六園は、観光名所で、
いつも人でいっぱいなのだが、
3月の初めの、緑の少ない時期、
しかも雨降りとなれば人は少ない。
普段は、行列ができるという灯籠も、
難なく過ぎることができる。
市内の料亭の出店である茶屋も、
すうと入ることができた。
たまたま席が空いたところを、
池に面した席を勧めてもらい、
加賀料理をいただく。
この点は、普段の行いの悪い、
同行者に感謝しなければ。
雨に打たれた、時代を感じさせる池を眺めながら、
仕方がなしに、苦手な酒をいただく。
人は誰でも、いや、私だけなのかもしれないけれど、
心の中に、闇を持っているものだ。
その闇が、ともすると、今の世の中の主流となっている、
合理性とは、仲が悪い。
科学的とかなんとか言いながら、
心の中の重箱の隅を掘り起こし、
ひっくり返し、消毒液までかけていく。
でもねえ、心の闇は、どこかにすり抜け、
しっかりと生きているのだよね。
忙しさに紛れて、自分の姿を見ていられない。
本当は、自分を見ることが、
とても怖いので、逃げているだけかもしれない。
鴨居玲の絵を見ていると、
そんなことを思ったりするのだ。
雨に濡れる庭の景色に染み入りながら、
苦痛な表情で、私が呟いたのは、
「お酒をもう一本。」
私の持っているのは、
その程度の闇なのだろう。























































