2021年06月

石臼には、目がある。ならば、、、。

さて、江戸時代の終わり頃、
今から160年ほど前のこと、
江戸には4000軒近くのそば屋があったという。
当時の人口、およそ120万人と比べてみても、
かなりの数だろう。

まだ動力の無かった時代。
そばは、人間の力で粉にされていたらしい。
そば屋には、調理場の他に臼場という場所があり、
そこで、職人たちが一日中、臼を回していたという。
一つの臼で挽けるそば粉の量は知れているので、
一軒のそば屋だけでも、
何人もの人足を抱えていたことだろう。
とすると、随分の人数が、そば屋の営業に、
関わっていたことになる。

そのころの江戸では、
西部の中野にそばの問屋があったそうだ。
江戸に入るそばは、一度中野に集まり、
ここで、皮を剥かれたそばの実が、
江戸中に配られたという。

ここを流れる神田川を使って、
水車による製粉も盛んだったそうだ。
もっとも、水車は突き臼による製粉となるから、
そばにはあまり向かなかったらしい。

それにしても、手回しで、
そば粉を作る作業は、大変な労働だったことだろう。
明治になって、動力が普及すると、
一気に機械製粉が広まった。
効率の良いロール式製粉も行われるようになって、
石臼は次第に使われなくなってきた。
石臼を回していた職人たちも、
仕事を失ったに違いない。

そうして、役目を終えて捨てられた石臼を、
哀れに思った人もいる。
製粉の盛んだった中野にある、
宝泉寺には、その石臼を祀った、
「石臼塚」というものがあるそうだ。
食べ物を扱った道具が、見捨てられているのを見て、
心を痛めたご住職が、
昭和の初めに作られたのだそうだ。

一時は廃れた石臼製粉だが、
近年見直され、質の良いそば粉を作るために、
製粉工場でも、使われるようになった。
そば粉でも、量より、質を求められるようになってきたのだね。

よく、昔と同じように、小さな石臼で、
手で挽いたそば粉を使った方がうまい!
とおっしゃる方もいる。
そういう方法で、そばを作っている店もあり、
それはそれで、味わい深いものだ。
でも、それを、毎日食べろと言われると、
私は、ちょっと引いてしまう。

今は、製粉の技術が発達し、
昔より、はるかに質の良いそば粉が、
手に入るようになった、、と思う。
そばを挽くというと、
石臼ばかりが頭に浮かぶが、
実は、その前後にも、とても手間のかかる作業があり、
そばの製粉は、その複雑な工程の組み合わせなのだね。

製粉工場に見学に行ったら、
グルグル回る何十台もの石臼に、
一つだけ、逆回りに動いているものがあった。
聞いてみると、石の目がそうなっているののだそうだ。
なるほどねぇ。
石の目の方向まで考えているのだ。

石に目があるのなら、
きっと、耳や、鼻もあるに違いない、
などと、進歩のないことを考えていたりして、、、。

 

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