2026年02月

腹ペコの関ヶ原

 

関ヶ原古戦場記念館の五階の展望室に入ると、
この古戦場の全体が見渡せる。
周囲を低い山で囲まれて、
工場や、普通の住宅が、
所々に固まって建てられている。
この場所で、この狭い範囲で、
四百年前のある一日、
およそ十五万の強者達が、ひしめき合って、
殺し合いをしていたのだ。

展望室の床面には、
各陣地の地図が描かれていて、
その方向を知ることができる。
おまけに、優秀なロボットくんがいて、
移動しながら、
その陣地の説明をしてくれる。
なるほどね。

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今、下のシアターで、
迫力のある映像を見てきたところだ。
まるで、その戦の中に、
放り出されたような、
混乱と、スピード感に、
頭がクラクラとしてきたところだ。
椅子が振動するのはまだしも、
上から、風を吹き付ける仕掛けがあるとまでは思わなかった。

そんな戦いが、
この目の前で、この場所で行われたのだ。
そう思うと、心に重く響くものがある。

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なぜ、この地であったのか。
どうして、ここ、関ヶ原で、
双方の大軍が、ぶつかり合ったのだろうか。
歴史書によると、
ここで戦いをしようと、申し合わせたわけではないらしい。
LINEでお互いに、いいね!をして、
示し合わせたわけでもなさそうだ。

三成は三成なりの、
家康は、家康なりの思惑があり、
それが、この地に、たまたま結集したということらしい。
しかも、戦いは、たった半日で審判が降ってしまった。
これだけの勢力の衝突ならば、
時間がかかるものと思われていたことだろう。
大阪城に入った西軍の総大将、毛利輝元だって、
九州の黒田如水だって、東北の上杉景勝だって、
そう思っていたことだろう。
それが、
たった、数時間で、雌雄が決してしまったのだ。

この戦いで、家康が天下を取ったわけではない。
だが、諸国の力関係は、
大きく家康に傾いていった。
歴史的に見ても、大きな節目だったのだね。

歴史に、「もしも」は禁物だというが、
やはり、想像せざるを得ない。
最初から家康と通じていた小早川秀秋が、
最後まで動かなかったら。
逆に、南宮山に構えた毛利秀元が動いていたら。
戦いに参加しなかった島津隊が、もし、、。
大津城攻めが、もう二日早く済んで、
立花宗茂が参加していたら。
家康が、本軍である秀忠の到着を待っていたら、、。
などなど、いろいろ思い浮かぶ。
近年、研究が進み、
今までの通説が、裏返されることもあるという。
いずれにしろ、この戦いは、
すごく、心惹かれるものがある。

展望台からは、
石田三成の陣地となった笹尾山も、
すぐ近くに見える。
聞けば、三成は、前日の夜に、
大垣から、ここへ移動したそうだ。
兵達は疲れていたのではないかな。
雑兵や足軽達は、いつも大将の指図に従わなければならない。
そして、戦いの矢面にさらされるのだ。
飯は食ったのか。
腹は減っていなかったのか。
こういうの、とても大切なこと。
どうしても気になるのだ。

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関ヶ原駅から歩いてくる途中に、
「東首塚」という場所があった。
そこは、この戦いで亡くなった者たちを、
葬った場所の一つらしい。
今では塚は見当たらないが、
その場所に大きな木が聳えていた。
名をスダジイと呼ぶ。
その日、どれだけの兵たちが亡くなったのかは、
正確には伝わっていないが、
かなりの数だったに違いない。

そうやって、力で物事を決めていた時代があったのだね。
昔のことだ。四百年も。
なのに、いまだに、
力で解決しようとしている人たちがいるのだ。
今の世にも。
正論と保身に身を任せていると、
いつか、争いの、いや、戦いの渦に巻き込まれることが、
再びあるかもしれない。
この狭い平原で、
ずしりとした甲冑を身につけ、
片手では振り回せないぐらいの重みのある刀を持ち、
腹ペコで混乱の中を闘いまくったこの時代から、
人は進歩していないのかもしれない。

冬の休みを、
琵琶湖の周辺で過ごすことにした。
私は歴史小説を読むことが好きだが、
読んでいると、
すぐに、この辺りの地名が出てくるのだ。
秀吉が最初に城を持ったのが長浜。
信長が力を込めて作った安土城。
石田三成が城を構えた佐和山城。
関ヶ原の後、その城を譲り受け、
井伊直政が作った彦根城。
明智光秀の城は坂本。
京極高次が籠った大津城。
何かと兵の集合場所になる石山寺。
冬には雪の伊吹山。

確かに、地図を見れば場所はわかるが、
距離感とか実感とかがわからない。
関西に行く時には、
そのまま通り過ぎてしまうこの場所を、
自分の感覚で知りたかった。
だから、彦根に、
あえて、温泉もないこの街に、
三泊をしてみようと思ったのだ。
その、初日に寄ったのが、
この関ヶ原。

そう関ヶ原。

この場所はねえ、
やはり、何度でも立ち止まってみる処だなあ。

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