2026年02月

彦根の雪は、やはり冷たい。

天気に恵まれない。
旅に出ると、いつもそうだ。
雨が降ったり、雪に襲われたり、
雲に覆われたり、強い風に押し戻されたり。
そんなことばかりだから、
時たま、ごく稀に恵まれる晴天に、
感謝するしかない。
そして、今回の三泊の、
滋賀、彦根への旅は、
そんな天気に翻弄された。

彦根の宿は、
駅から徒歩15分ぐらいの、
古い街並みの中に埋まっている、
昔ながらの商人宿だった。
なんでも、明治時代の建物を、
そのまま使っているという。
間口の割に奥行きがあって、
石灯籠と植え込みのある中庭が2箇所あり、
そこに挟まれただだっ広い二間が、
我々に当てがわれた。
学生の団体だったら、軽く一ダース以上は寝られるだろう。
床の間には、解読不明の書が掛けられ、
牛の置物が、重々しく鎮座している。

宿の世話をしているのが、
五十年配のご兄弟で、
この方達が、とても気持ちよく対応してくれる。
トイレや風呂は共用だが、
今風に綺麗に作り直されている。
特に風呂は広々としていて、
入り口に使用中の看板を下げておけば、
貸切で入れるのだ。これが気持ちがいい。
季節のせいか、他に泊まっている人も少ないので、
夜も静かだ。
街中なので、夕食は頼まなかったのだが、
すぐ近くにコンビニがあり、
好きなようにしてくださいとの宿の人の言葉に、
とても気楽に過ごすことが出来た。

夕食をと街に出れば、
すぐに古くからの商店街に出る。
車の通る両側に、
雨よけのアーケードを構えた、
どこにでもある、昔ながらの街だ。
時間はまだ6時半。
名は銀座街。
でも、誰も歩いていない。
しばらくすると、灯りの灯ったスーパーらしき店があるが、
中に人の気配がない。

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ネットで探してみれば、
その裏路地に、おでん屋さんらしきものがある。
真っ暗な路地に、
人通りのない路地に、
ポツンと、提灯の灯りが見える。

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空腹を覚えていた私たちは、
地獄の闇の中に灯った、
一つ灯明のようなその店に、
考える余裕もなく吸い込まれていったのだ。

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旅の形は、人それぞれだと思う。
効率を考えれば、駅近のホテルに泊まり、
ネットでおすすめの店に行くのが、
もっとも、無難な姿なのだろう。
でも、私は自分は素直な人間だと思っているのに、
他人からは、天邪鬼(あまのじゃく)と言われたりするのだが、
その「無難」が大嫌いなのだ。
人混みと祭りが苦手。
いつも、人のいない方へ、
「無難」好きの人たちの集まらない、
季節と時間と場所を選んで旅をしている。

詳細は話さないが、
そのおでん屋はいい店だった。
ここなら三日間、通ってもいいなと思った。
でも、次の日は、昼に、大津で鮎を食べ過ぎ、
夜は出歩く元気はなかった。
そして、その夜に、
彦根に大雪が降ったのだ。

雪の予報が出ていたのだが、
床に着いた時にはまだ降っていなかった。
夜中に目覚めて、雪見障子を上げてみれば、
こんこんと雪が降っている。
朝には、およそ30センチの重い雪に、
彦根の街は、残すところなく覆われていたのだ。

その日は、伊勢神宮の天照大神の父母にあたる、
なんとかという神様(なんと罰当たりな)を祀る、
多賀大社に詣でる予定だったが、
交通の状況がわからない。
しばらくして、JR琵琶湖線は動いているとの情報を得て、
多賀大社はあきらめ、
もう一つの目的地である、
五箇荘金堂を目指すことにした。
ここに、予約している料理屋さんがあるのだ。

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外に出れば、なんと、長野より多い雪の世界。
寒さはそれほどでもないが、
歩きにくい。
なんだここまで来て、
雪の上を歩かなければならないのか、とほ。
やや時間をかけて、彦根駅前へ。
井伊直政公の銅像も、雪の中だ。

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でも、琵琶湖線を少し南に向かうだけで、
雪の量はぐっと減る。
能登川駅からバスで五箇荘へ。

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公開されている近江商人の館の一つを訪ねると、
こんな日にようこそと歓待されたのだ。
お目当てだった庭は、
雪が被っていて、モコモコとしているばかり。
でも、百年以上は経っている、
その建物の座敷には、誰かが住み着いているような、
そんな、艶かしさを感じるのだ。

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料理屋さんに行っても、
驚いたような顔をされた。
他のお客は、皆、キャンセルされたとのことで、
我々二人に、付きっきりでお相手していただくことに。
風情のある座敷で、
滋賀の滋養ある食材を、十分に楽しむことができた。
お酒は苦手だと言っているのに、
次から次へと勧めてくれるので、
仕方がなしにいただいた。
はい、仕方がなしに。
雪の積もった梅の古木を見ながら、
とてもいい時間を過ごせたと思う。

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夜になって、
かのおでん屋に出かけてみたんだ。
だけど、雪道の向こうに、
あの提灯の灯りは、
点っていなかった。
この雪の中、来る人もいないと、
判断したのだろうか。
彦根の旅で、
唯一の心残りが、
この店に、もう一度行けなかったこと。
常連さんが食べていた、
タコの足を、試したかったなあ。

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石山寺と三井寺、女性たちも戦っていた。

大津にある三井寺の観音堂からは、
大津の街と、琵琶湖が望まれる。
それもそのはずだ。
本堂のある場所から、
急な階段を、ヒイコラ言いながら登ってきたのだ。
ううん、膝が痛い、歳をとるのは嫌だなどと、
日頃の運動不足は棚に上げている。

今村翔吾の直木賞受賞作品である、
「塞王(さいおう)の楯」の中で、
ここ三井寺に大砲を担ぎ上げて、
大津城に向かって、弾丸を放つシーンがある。
関ヶ原の戦いの、わずか数日前のことだ。

東軍である家康側についた京極高次(きょうごくたかつぐ)が、
俄かに大津城に立て籠ったのだ。
これを西軍が取り囲むが、
城はなかなか落ちない。
そこで、滋賀の鉄砲鍛冶、
国友衆が作った大砲をここから打ったのだ。

大津城は、今は何もないが、
琵琶湖の際に造られていたそうだ。
マンション群の立ち並ぶ大津の街を飛び越えて、
大砲の玉は、その場所まで届いたらしい。
事実、何発かは天守に当たり、
驚いた高次は城を明け渡すことを決意する。

それが、関ヶ原の戦いの1日前。
実際に開城したのは、その当日だったのだ。
つまり、この大津城攻めに参加した西軍の兵士たち、
一万五千とも、二万とも言われているが、
天下分かれ目の戦いに間に合わなかったことになる。

戦いのあと、家康は、このことを評価し、
僧になった高次を呼び戻して、大名に取り立てた。
ちなみに弟の京極高知は、東軍として、
関ヶ原の戦いに参加しているのだ。

この京極高次は、名門の生まれでありながら、
戦国大名としては、異色な生き方をしている。
なにしろ、運が悪いというか、先を見る目がないというか、
身を預けた勢力が、ことごとく負けているのだ。
明智光秀しかり、柴田勝家しかり。
それでも、生き延びたのは、妹や妻のおかげ。
妹が秀吉の側室となり、松の丸殿と呼ばれた。
妻のお初は、あの浅井三姉妹の二番目、
つまり、淀殿の妹なのだ。

だから、大津城開城でも生き延びたのは、
淀殿の計らいがあったと言われているそうだ。

そう、そうして、
やっと、淀殿のお話。

大津といえば、
この三井寺と、もう一つの石山寺。
この日朝に、この石山寺を訪ねてきた。

琵琶湖から流れる唯一の川、
瀬田川のほとりにあって、
奈良時代に造られたという、由緒あるお寺。
平安時代には、京の貴族たちが、
こぞって参拝しに来たという。
あの紫式部も、ここに滞在中に、
源氏物語の構想を得たとされている。

一番高いところに立つのが、
国宝の多宝塔で、
源頼朝が寄進したという。
何やら、時代感覚が狂ってしまいそうな寺なのだ。

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ところがこの場所、
京から東へ向かう交通の要所。
何かあるごとに、
兵の集まる場所となったようだ。
平家物語でも、太平記でも、
この寺の名前が出てくるのだから。

この寺に向かう、入り口の門がすごい。
なんと、鎌倉時代のもの。
立っている仁王は、運慶、湛慶の作だとか。
埃だらけだけどね。
だけど、関ヶ原の戦いの頃には、
この門もだいぶ傷んでしまった。
そのときに寄進して大修理をしたのが、
誰とは言わん、淀殿だった。

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淀殿は、国宝となっている本堂の修理も行なっている。
懸崖づくりの部分は、その時に増設されたものだという。
これは、関ヶ原の戦いの後にも続けられているから、
けっして、家康が勝ったからといって、
領地を減らされたからといって、
豊臣の権威が失われたわけではないのかもしれない。

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一方の、この三井寺だって、
園城寺(おんじょうじ)とも呼ばれるが、
七世紀に造られたという、
歴史のあるお寺。
ところが、秀吉は、
晩年になって、突然、この寺を廃止してしまう。
以前の戦の時には、さんざん利用したのにね。
そのため、お堂や建物の多くは、
信長の焼き討ちにあって再興中の、
比叡山に移されたという。
その廃止令は、秀吉の亡くなる直前に取り消されたそうだが、
境内には、何もなかった。
そこでと、今は国宝となった本堂、
金堂を寄進したのが、
秀吉の正室である、「ねね」こと、北政所(きたのまんどころ)なのだそうだ。

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金堂の落慶が、関ヶ原の戦いの前の年となる。
これだけのものを建てるということは、
北政所にも、それなりの権限があったのだろう。
加藤清正、福島正則などの、
秀吉の子飼いの侍たちにも、
慕われていたらしい。

以後、家康も、伏見城にあった門や、
三重塔を移築した。
家康も、北政所には、敬意を払っていたとか。

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さて、秀吉は、どうも女癖が悪かったようだ。
側室と言われる女性を、
何人もかかえてきたという。
本当かどうかわからないが、
「ねね」が信長に、
戦に出かけるたびに違う女を連れ帰ってくると、
愚痴をこぼして、呆れられたというような話もある。

その女性たちの中で、
嫡男を得たのは淀殿だけ。
豊臣家の唯一の跡取りを産んだということで、
秀吉亡きあと、強い権限を持つことができた。

関ヶ原の戦い前後の、荒れた時代の中で、
微妙な立場をわきまえながらも、
今我々が眺めることのできる建物や
文化を残した女性たちがいたのだ。
彼女たちも、ある面で、
戦っていたのかもしれない。

眺めの良い、三井寺の観音堂。
この辺り、桜の木が多いから、
その季節だったら、素晴らしいことだろう。
こんな、冬空の下しか、
旅をする機会のない自分を呪いながら、
大津の街に向かって、急な階段を降りていった。
膝が痛くて、手すりに掴まらなければならない自分に、
とほほ、と思いながらね。

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腹ペコの関ヶ原

 

関ヶ原古戦場記念館の五階の展望室に入ると、
この古戦場の全体が見渡せる。
周囲を低い山で囲まれて、
工場や、普通の住宅が、
所々に固まって建てられている。
この場所で、この狭い範囲で、
四百年前のある一日、
およそ十五万の強者達が、ひしめき合って、
殺し合いをしていたのだ。

展望室の床面には、
各陣地の地図が描かれていて、
その方向を知ることができる。
おまけに、優秀なロボットくんがいて、
移動しながら、
その陣地の説明をしてくれる。
なるほどね。

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今、下のシアターで、
迫力のある映像を見てきたところだ。
まるで、その戦の中に、
放り出されたような、
混乱と、スピード感に、
頭がクラクラとしてきたところだ。
椅子が振動するのはまだしも、
上から、風を吹き付ける仕掛けがあるとまでは思わなかった。

そんな戦いが、
この目の前で、この場所で行われたのだ。
そう思うと、心に重く響くものがある。

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なぜ、この地であったのか。
どうして、ここ、関ヶ原で、
双方の大軍が、ぶつかり合ったのだろうか。
歴史書によると、
ここで戦いをしようと、申し合わせたわけではないらしい。
LINEでお互いに、いいね!をして、
示し合わせたわけでもなさそうだ。

三成は三成なりの、
家康は、家康なりの思惑があり、
それが、この地に、たまたま結集したということらしい。
しかも、戦いは、たった半日で審判が降ってしまった。
これだけの勢力の衝突ならば、
時間がかかるものと思われていたことだろう。
大阪城に入った西軍の総大将、毛利輝元だって、
九州の黒田如水だって、東北の上杉景勝だって、
そう思っていたことだろう。
それが、
たった、数時間で、雌雄が決してしまったのだ。

この戦いで、家康が天下を取ったわけではない。
だが、諸国の力関係は、
大きく家康に傾いていった。
歴史的に見ても、大きな節目だったのだね。

歴史に、「もしも」は禁物だというが、
やはり、想像せざるを得ない。
最初から家康と通じていた小早川秀秋が、
最後まで動かなかったら。
逆に、南宮山に構えた毛利秀元が動いていたら。
戦いに参加しなかった島津隊が、もし、、。
大津城攻めが、もう二日早く済んで、
立花宗茂が参加していたら。
家康が、本軍である秀忠の到着を待っていたら、、。
などなど、いろいろ思い浮かぶ。
近年、研究が進み、
今までの通説が、裏返されることもあるという。
いずれにしろ、この戦いは、
すごく、心惹かれるものがある。

展望台からは、
石田三成の陣地となった笹尾山も、
すぐ近くに見える。
聞けば、三成は、前日の夜に、
大垣から、ここへ移動したそうだ。
兵達は疲れていたのではないかな。
雑兵や足軽達は、いつも大将の指図に従わなければならない。
そして、戦いの矢面にさらされるのだ。
飯は食ったのか。
腹は減っていなかったのか。
こういうの、とても大切なこと。
どうしても気になるのだ。

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関ヶ原駅から歩いてくる途中に、
「東首塚」という場所があった。
そこは、この戦いで亡くなった者たちを、
葬った場所の一つらしい。
今では塚は見当たらないが、
その場所に大きな木が聳えていた。
名をスダジイと呼ぶ。
その日、どれだけの兵たちが亡くなったのかは、
正確には伝わっていないが、
かなりの数だったに違いない。

そうやって、力で物事を決めていた時代があったのだね。
昔のことだ。四百年も。
なのに、いまだに、
力で解決しようとしている人たちがいるのだ。
今の世にも。
正論と保身に身を任せていると、
いつか、争いの、いや、戦いの渦に巻き込まれることが、
再びあるかもしれない。
この狭い平原で、
ずしりとした甲冑を身につけ、
片手では振り回せないぐらいの重みのある刀を持ち、
腹ペコで混乱の中を闘いまくったこの時代から、
人は進歩していないのかもしれない。

冬の休みを、
琵琶湖の周辺で過ごすことにした。
私は歴史小説を読むことが好きだが、
読んでいると、
すぐに、この辺りの地名が出てくるのだ。
秀吉が最初に城を持ったのが長浜。
信長が力を込めて作った安土城。
石田三成が城を構えた佐和山城。
関ヶ原の後、その城を譲り受け、
井伊直政が作った彦根城。
明智光秀の城は坂本。
京極高次が籠った大津城。
何かと兵の集合場所になる石山寺。
冬には雪の伊吹山。

確かに、地図を見れば場所はわかるが、
距離感とか実感とかがわからない。
関西に行く時には、
そのまま通り過ぎてしまうこの場所を、
自分の感覚で知りたかった。
だから、彦根に、
あえて、温泉もないこの街に、
三泊をしてみようと思ったのだ。
その、初日に寄ったのが、
この関ヶ原。

そう関ヶ原。

この場所はねえ、
やはり、何度でも立ち止まってみる処だなあ。

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