そば屋の休日

旅の終わりの「石田三成」

「石田三成、一本で〜す。」

中居さんの、中へ通す声が、
我々の座った座敷までよく響く。
ここは滋賀の長浜。
北国街道沿いにある、
少し、時代のかかった料理屋さん。
名物と言われる「焼鯖そうめん」で、
名の知れたお店だ。
さて、料理を注文して横を見ると、
地酒の紹介と共にこの名がある。
酒が苦手の私でも、
つい、注文してみたくなったのだ。

ここ長浜は、石田三成の育った場所。
そして、その才能を見出したのが、
この地に、自身の初めての城を構えた、
秀吉だったと言われている。
寺で茶を所望した秀吉に、
ぬるい湯から、熱い湯へとの、
気遣いをしたという話は有名。
小谷城の攻撃などで功をあげ、
急速に出世していた秀吉にとって、
能力のある家来を持つことは、
必要なことであった。
その要望に応えた中に、
石田三成もいたのだね。

さて、そのそうめんは、
早々と登場した。
麺線を揃えて丸めたそうめんの上に、
焼いたあとに、長い間煮込んだと思われる、
鯖のぶつ切りがどんと乗っているのだ。
汁はなく、そうめんに味が染み込んでいるらしい。

吸い物と、焼鯖の押し寿司が付いてくる。
一緒に、彦根の赤蒟蒻と、
琵琶湖のスジエビと煮込んだエビ豆も。

で、「石田三成」という酒は、
ガラスの徳利に入れられて出てくる。
なので、こちらも、ガラスのお猪口を選んでいただく。
これは、「七本槍」という酒造の造る原酒とかで、
冷や、いや、常温でいただくのがお勧めなのだそうだ。

ええ、「七本槍」だって。
七本槍といえば、信長亡き後、
柴田勝家と秀吉が争った時に、
活躍した武将たちに与えられた名前ではなかったか。
その戦場となった賤ヶ岳(しづがたけ)は、
このすぐ近くのはずだ。

七本槍といえば、福島正則、
加藤清正、加藤嘉明、脇坂なにがし、、、
などで有名。
この戦いに、石田三成も参加しているはずだ。
でも名前は出てこない。

それもそのはず、
「賤ヶ岳の七本槍」が持ち上げられたのは、
江戸時代になってからの戦記物なので、
まさか、そこに、
家康に逆らった三成の名を出すわけにもいかなかったのだろう。

本当はどうだったのかわからないが、
三成は、戦が下手だったと言われている。
秀吉の北条攻めの時に、
一つの城を落とすのに、
随分と手こずってしまった。
映画にもなった「忍城」の戦いだ。

しかしながら、官僚としての才覚は抜群で、
秀吉に重用されたそうだ。
特に、朝鮮出兵の際には、
船の手配や武将の配分に、
その才を発揮したと言われる。
でもねえ、その時の振る舞いが、
前線で戦っていた武将たちには、
不評どころか、恨みまで買うことになってしまう。

だからねえ、
秀吉亡きあと、
せっかくの「七本槍」の仲間たちからも、
殺されかけたりしたんだよね。

でも、自分の領地を治めるには、
良い指導者だったとも言われている。
真面目で、融通の効かぬ性格のゆえ、
家康の横暴を許すことができず、
関ヶ原の戦いのような結果となったのかなあ。

鯖の味の染みたそうめんは、
見た目に反して、美味しいものだった。
ここから峠を越えた福井から、
運ばれてきた鯖を、
大切にいただくための工夫なのだろうか。
ちょうど座った場所が、
小部屋のようになっていて、
雪の積もった中庭が見える。
乱雑に積まれた本棚があって、
その上に、なんだかわからない、
黒い雲のような絵が飾ってある。
そんなところが、
また、気のおけなくていい。

石田三成について、
多くの人が、語っているが、
その人柄について、
今ひとつ、ピンとこないのだ。
かわいそうなのは、大谷刑部(ぎょうぶ)だ。
家康の東北出兵に参加しようと、
三成の元を訪ねたのに、
挙兵の意思を聞いて、
最後まで付き合うこととなる。
それなりの深い親交があったのだね。

きっと、
才はあったけれど、
生き方が下手な人だったのだ、三成は。
などと勝手に、
才もないのに、生き方も下手な私は、
そう思い描いている。
ついでに、私は、
商売も下手なようだが。

で、美味しい料理に、
いつの間にか、
酒の「石田三成」が終わっている。
私は酒が苦手なのだ。
でも、でも、
今一度、聞いてみたいのだ。
関ヶ原の古戦場巡りから始まった、
琵琶湖の4日間の旅の締めくくりに。
だから、だから、仕方なく、
仕方なく、中居さんに手を挙げる。

「石田三成、一本追加で〜す。」
ほら、やったね、三成くん。

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彦根の雪は、やはり冷たい。

天気に恵まれない。
旅に出ると、いつもそうだ。
雨が降ったり、雪に襲われたり、
雲に覆われたり、強い風に押し戻されたり。
そんなことばかりだから、
時たま、ごく稀に恵まれる晴天に、
感謝するしかない。
そして、今回の三泊の、
滋賀、彦根への旅は、
そんな天気に翻弄された。

彦根の宿は、
駅から徒歩15分ぐらいの、
古い街並みの中に埋まっている、
昔ながらの商人宿だった。
なんでも、明治時代の建物を、
そのまま使っているという。
間口の割に奥行きがあって、
石灯籠と植え込みのある中庭が2箇所あり、
そこに挟まれただだっ広い二間が、
我々に当てがわれた。
学生の団体だったら、軽く一ダース以上は寝られるだろう。
床の間には、解読不明の書が掛けられ、
牛の置物が、重々しく鎮座している。

宿の世話をしているのが、
五十年配のご兄弟で、
この方達が、とても気持ちよく対応してくれる。
トイレや風呂は共用だが、
今風に綺麗に作り直されている。
特に風呂は広々としていて、
入り口に使用中の看板を下げておけば、
貸切で入れるのだ。これが気持ちがいい。
季節のせいか、他に泊まっている人も少ないので、
夜も静かだ。
街中なので、夕食は頼まなかったのだが、
すぐ近くにコンビニがあり、
好きなようにしてくださいとの宿の人の言葉に、
とても気楽に過ごすことが出来た。

夕食をと街に出れば、
すぐに古くからの商店街に出る。
車の通る両側に、
雨よけのアーケードを構えた、
どこにでもある、昔ながらの街だ。
時間はまだ6時半。
名は銀座街。
でも、誰も歩いていない。
しばらくすると、灯りの灯ったスーパーらしき店があるが、
中に人の気配がない。

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ネットで探してみれば、
その裏路地に、おでん屋さんらしきものがある。
真っ暗な路地に、
人通りのない路地に、
ポツンと、提灯の灯りが見える。

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空腹を覚えていた私たちは、
地獄の闇の中に灯った、
一つ灯明のようなその店に、
考える余裕もなく吸い込まれていったのだ。

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旅の形は、人それぞれだと思う。
効率を考えれば、駅近のホテルに泊まり、
ネットでおすすめの店に行くのが、
もっとも、無難な姿なのだろう。
でも、私は自分は素直な人間だと思っているのに、
他人からは、天邪鬼(あまのじゃく)と言われたりするのだが、
その「無難」が大嫌いなのだ。
人混みと祭りが苦手。
いつも、人のいない方へ、
「無難」好きの人たちの集まらない、
季節と時間と場所を選んで旅をしている。

詳細は話さないが、
そのおでん屋はいい店だった。
ここなら三日間、通ってもいいなと思った。
でも、次の日は、昼に、大津で鮎を食べ過ぎ、
夜は出歩く元気はなかった。
そして、その夜に、
彦根に大雪が降ったのだ。

雪の予報が出ていたのだが、
床に着いた時にはまだ降っていなかった。
夜中に目覚めて、雪見障子を上げてみれば、
こんこんと雪が降っている。
朝には、およそ30センチの重い雪に、
彦根の街は、残すところなく覆われていたのだ。

その日は、伊勢神宮の天照大神の父母にあたる、
なんとかという神様(なんと罰当たりな)を祀る、
多賀大社に詣でる予定だったが、
交通の状況がわからない。
しばらくして、JR琵琶湖線は動いているとの情報を得て、
多賀大社はあきらめ、
もう一つの目的地である、
五箇荘金堂を目指すことにした。
ここに、予約している料理屋さんがあるのだ。

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外に出れば、なんと、長野より多い雪の世界。
寒さはそれほどでもないが、
歩きにくい。
なんだここまで来て、
雪の上を歩かなければならないのか、とほ。
やや時間をかけて、彦根駅前へ。
井伊直政公の銅像も、雪の中だ。

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でも、琵琶湖線を少し南に向かうだけで、
雪の量はぐっと減る。
能登川駅からバスで五箇荘へ。

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公開されている近江商人の館の一つを訪ねると、
こんな日にようこそと歓待されたのだ。
お目当てだった庭は、
雪が被っていて、モコモコとしているばかり。
でも、百年以上は経っている、
その建物の座敷には、誰かが住み着いているような、
そんな、艶かしさを感じるのだ。

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料理屋さんに行っても、
驚いたような顔をされた。
他のお客は、皆、キャンセルされたとのことで、
我々二人に、付きっきりでお相手していただくことに。
風情のある座敷で、
滋賀の滋養ある食材を、十分に楽しむことができた。
お酒は苦手だと言っているのに、
次から次へと勧めてくれるので、
仕方がなしにいただいた。
はい、仕方がなしに。
雪の積もった梅の古木を見ながら、
とてもいい時間を過ごせたと思う。

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夜になって、
かのおでん屋に出かけてみたんだ。
だけど、雪道の向こうに、
あの提灯の灯りは、
点っていなかった。
この雪の中、来る人もいないと、
判断したのだろうか。
彦根の旅で、
唯一の心残りが、
この店に、もう一度行けなかったこと。
常連さんが食べていた、
タコの足を、試したかったなあ。

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石山寺と三井寺、女性たちも戦っていた。

大津にある三井寺の観音堂からは、
大津の街と、琵琶湖が望まれる。
それもそのはずだ。
本堂のある場所から、
急な階段を、ヒイコラ言いながら登ってきたのだ。
ううん、膝が痛い、歳をとるのは嫌だなどと、
日頃の運動不足は棚に上げている。

今村翔吾の直木賞受賞作品である、
「塞王(さいおう)の楯」の中で、
ここ三井寺に大砲を担ぎ上げて、
大津城に向かって、弾丸を放つシーンがある。
関ヶ原の戦いの、わずか数日前のことだ。

東軍である家康側についた京極高次(きょうごくたかつぐ)が、
俄かに大津城に立て籠ったのだ。
これを西軍が取り囲むが、
城はなかなか落ちない。
そこで、滋賀の鉄砲鍛冶、
国友衆が作った大砲をここから打ったのだ。

大津城は、今は何もないが、
琵琶湖の際に造られていたそうだ。
マンション群の立ち並ぶ大津の街を飛び越えて、
大砲の玉は、その場所まで届いたらしい。
事実、何発かは天守に当たり、
驚いた高次は城を明け渡すことを決意する。

それが、関ヶ原の戦いの1日前。
実際に開城したのは、その当日だったのだ。
つまり、この大津城攻めに参加した西軍の兵士たち、
一万五千とも、二万とも言われているが、
天下分かれ目の戦いに間に合わなかったことになる。

戦いのあと、家康は、このことを評価し、
僧になった高次を呼び戻して、大名に取り立てた。
ちなみに弟の京極高知は、東軍として、
関ヶ原の戦いに参加しているのだ。

この京極高次は、名門の生まれでありながら、
戦国大名としては、異色な生き方をしている。
なにしろ、運が悪いというか、先を見る目がないというか、
身を預けた勢力が、ことごとく負けているのだ。
明智光秀しかり、柴田勝家しかり。
それでも、生き延びたのは、妹や妻のおかげ。
妹が秀吉の側室となり、松の丸殿と呼ばれた。
妻のお初は、あの浅井三姉妹の二番目、
つまり、淀殿の妹なのだ。

だから、大津城開城でも生き延びたのは、
淀殿の計らいがあったと言われているそうだ。

そう、そうして、
やっと、淀殿のお話。

大津といえば、
この三井寺と、もう一つの石山寺。
この日朝に、この石山寺を訪ねてきた。

琵琶湖から流れる唯一の川、
瀬田川のほとりにあって、
奈良時代に造られたという、由緒あるお寺。
平安時代には、京の貴族たちが、
こぞって参拝しに来たという。
あの紫式部も、ここに滞在中に、
源氏物語の構想を得たとされている。

一番高いところに立つのが、
国宝の多宝塔で、
源頼朝が寄進したという。
何やら、時代感覚が狂ってしまいそうな寺なのだ。

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ところがこの場所、
京から東へ向かう交通の要所。
何かあるごとに、
兵の集まる場所となったようだ。
平家物語でも、太平記でも、
この寺の名前が出てくるのだから。

この寺に向かう、入り口の門がすごい。
なんと、鎌倉時代のもの。
立っている仁王は、運慶、湛慶の作だとか。
埃だらけだけどね。
だけど、関ヶ原の戦いの頃には、
この門もだいぶ傷んでしまった。
そのときに寄進して大修理をしたのが、
誰とは言わん、淀殿だった。

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淀殿は、国宝となっている本堂の修理も行なっている。
懸崖づくりの部分は、その時に増設されたものだという。
これは、関ヶ原の戦いの後にも続けられているから、
けっして、家康が勝ったからといって、
領地を減らされたからといって、
豊臣の権威が失われたわけではないのかもしれない。

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一方の、この三井寺だって、
園城寺(おんじょうじ)とも呼ばれるが、
七世紀に造られたという、
歴史のあるお寺。
ところが、秀吉は、
晩年になって、突然、この寺を廃止してしまう。
以前の戦の時には、さんざん利用したのにね。
そのため、お堂や建物の多くは、
信長の焼き討ちにあって再興中の、
比叡山に移されたという。
その廃止令は、秀吉の亡くなる直前に取り消されたそうだが、
境内には、何もなかった。
そこでと、今は国宝となった本堂、
金堂を寄進したのが、
秀吉の正室である、「ねね」こと、北政所(きたのまんどころ)なのだそうだ。

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金堂の落慶が、関ヶ原の戦いの前の年となる。
これだけのものを建てるということは、
北政所にも、それなりの権限があったのだろう。
加藤清正、福島正則などの、
秀吉の子飼いの侍たちにも、
慕われていたらしい。

以後、家康も、伏見城にあった門や、
三重塔を移築した。
家康も、北政所には、敬意を払っていたとか。

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さて、秀吉は、どうも女癖が悪かったようだ。
側室と言われる女性を、
何人もかかえてきたという。
本当かどうかわからないが、
「ねね」が信長に、
戦に出かけるたびに違う女を連れ帰ってくると、
愚痴をこぼして、呆れられたというような話もある。

その女性たちの中で、
嫡男を得たのは淀殿だけ。
豊臣家の唯一の跡取りを産んだということで、
秀吉亡きあと、強い権限を持つことができた。

関ヶ原の戦い前後の、荒れた時代の中で、
微妙な立場をわきまえながらも、
今我々が眺めることのできる建物や
文化を残した女性たちがいたのだ。
彼女たちも、ある面で、
戦っていたのかもしれない。

眺めの良い、三井寺の観音堂。
この辺り、桜の木が多いから、
その季節だったら、素晴らしいことだろう。
こんな、冬空の下しか、
旅をする機会のない自分を呪いながら、
大津の街に向かって、急な階段を降りていった。
膝が痛くて、手すりに掴まらなければならない自分に、
とほほ、と思いながらね。

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腹ペコの関ヶ原

 

関ヶ原古戦場記念館の五階の展望室に入ると、
この古戦場の全体が見渡せる。
周囲を低い山で囲まれて、
工場や、普通の住宅が、
所々に固まって建てられている。
この場所で、この狭い範囲で、
四百年前のある一日、
およそ十五万の強者達が、ひしめき合って、
殺し合いをしていたのだ。

展望室の床面には、
各陣地の地図が描かれていて、
その方向を知ることができる。
おまけに、優秀なロボットくんがいて、
移動しながら、
その陣地の説明をしてくれる。
なるほどね。

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今、下のシアターで、
迫力のある映像を見てきたところだ。
まるで、その戦の中に、
放り出されたような、
混乱と、スピード感に、
頭がクラクラとしてきたところだ。
椅子が振動するのはまだしも、
上から、風を吹き付ける仕掛けがあるとまでは思わなかった。

そんな戦いが、
この目の前で、この場所で行われたのだ。
そう思うと、心に重く響くものがある。

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なぜ、この地であったのか。
どうして、ここ、関ヶ原で、
双方の大軍が、ぶつかり合ったのだろうか。
歴史書によると、
ここで戦いをしようと、申し合わせたわけではないらしい。
LINEでお互いに、いいね!をして、
示し合わせたわけでもなさそうだ。

三成は三成なりの、
家康は、家康なりの思惑があり、
それが、この地に、たまたま結集したということらしい。
しかも、戦いは、たった半日で審判が降ってしまった。
これだけの勢力の衝突ならば、
時間がかかるものと思われていたことだろう。
大阪城に入った西軍の総大将、毛利輝元だって、
九州の黒田如水だって、東北の上杉景勝だって、
そう思っていたことだろう。
それが、
たった、数時間で、雌雄が決してしまったのだ。

この戦いで、家康が天下を取ったわけではない。
だが、諸国の力関係は、
大きく家康に傾いていった。
歴史的に見ても、大きな節目だったのだね。

歴史に、「もしも」は禁物だというが、
やはり、想像せざるを得ない。
最初から家康と通じていた小早川秀秋が、
最後まで動かなかったら。
逆に、南宮山に構えた毛利秀元が動いていたら。
戦いに参加しなかった島津隊が、もし、、。
大津城攻めが、もう二日早く済んで、
立花宗茂が参加していたら。
家康が、本軍である秀忠の到着を待っていたら、、。
などなど、いろいろ思い浮かぶ。
近年、研究が進み、
今までの通説が、裏返されることもあるという。
いずれにしろ、この戦いは、
すごく、心惹かれるものがある。

展望台からは、
石田三成の陣地となった笹尾山も、
すぐ近くに見える。
聞けば、三成は、前日の夜に、
大垣から、ここへ移動したそうだ。
兵達は疲れていたのではないかな。
雑兵や足軽達は、いつも大将の指図に従わなければならない。
そして、戦いの矢面にさらされるのだ。
飯は食ったのか。
腹は減っていなかったのか。
こういうの、とても大切なこと。
どうしても気になるのだ。

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関ヶ原駅から歩いてくる途中に、
「東首塚」という場所があった。
そこは、この戦いで亡くなった者たちを、
葬った場所の一つらしい。
今では塚は見当たらないが、
その場所に大きな木が聳えていた。
名をスダジイと呼ぶ。
その日、どれだけの兵たちが亡くなったのかは、
正確には伝わっていないが、
かなりの数だったに違いない。

そうやって、力で物事を決めていた時代があったのだね。
昔のことだ。四百年も。
なのに、いまだに、
力で解決しようとしている人たちがいるのだ。
今の世にも。
正論と保身に身を任せていると、
いつか、争いの、いや、戦いの渦に巻き込まれることが、
再びあるかもしれない。
この狭い平原で、
ずしりとした甲冑を身につけ、
片手では振り回せないぐらいの重みのある刀を持ち、
腹ペコで混乱の中を闘いまくったこの時代から、
人は進歩していないのかもしれない。

冬の休みを、
琵琶湖の周辺で過ごすことにした。
私は歴史小説を読むことが好きだが、
読んでいると、
すぐに、この辺りの地名が出てくるのだ。
秀吉が最初に城を持ったのが長浜。
信長が力を込めて作った安土城。
石田三成が城を構えた佐和山城。
関ヶ原の後、その城を譲り受け、
井伊直政が作った彦根城。
明智光秀の城は坂本。
京極高次が籠った大津城。
何かと兵の集合場所になる石山寺。
冬には雪の伊吹山。

確かに、地図を見れば場所はわかるが、
距離感とか実感とかがわからない。
関西に行く時には、
そのまま通り過ぎてしまうこの場所を、
自分の感覚で知りたかった。
だから、彦根に、
あえて、温泉もないこの街に、
三泊をしてみようと思ったのだ。
その、初日に寄ったのが、
この関ヶ原。

そう関ヶ原。

この場所はねえ、
やはり、何度でも立ち止まってみる処だなあ。

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北向観音のご開帳へ

あれ、こんなに遠かったかな。

駅から歩いて、ゆるい坂を登っているうちに、
つい、そう思ってしまった。
別に、観音様が遠くに移動したわけではない。
私の脚が、それだけポンコツになっただけの話だ。

上田から、久しぶりの上田電鉄別所線に乗って、
終点の別所温泉駅へ。
旅館の旗や看板を持って、出迎えの姿があるのは、
いかにも温泉地らしい光景だ。
この地にある、北向観音が、
六十数年ぶりというご開帳をしているというので、
どんな様子かと、何十年かぶりに足を運んだ。

 

 

北向観音への参道を見ると、
昔のままの風景だ。
両側に、土産物屋と食堂。
お参りの前に、
ちょっと、口の中を清めておこうと思ったのだが、
残念ながら、開いている店はない。
仕方がないので、
そのまま階段を登っていく。

 

もう夕方近くなので、
参拝の人もまばら。
係の人の言うことには、
先ほどまで、バスの団体が来たので、
境内は賑わっていたという。
日曜日には、
一時間以上待つような行列ができたそうだ。
だから、今は、ゆっくりと、
拝むことができますよ、と。

 

何回も来ているのに、
本堂に上がるのは初めて。
正面に座すのは、
ほぼ等身大の、千手観音像。
座ったお姿は珍しい。
横にいるお坊さんが、
ぜひこのお顔を心に刻んでお帰りください、
と言われるのだが、
御簾(みす)というのだろう、
すだれが掛かっていて、よく見えない。
少し斜めから見ると、なるほど、
と言う程度にお顔がみえる。
横に置かれた前立ち本尊は、
金ピカに輝いている上に、
とても小さいので、やはり、よく見えないのだ。
でもともかく、観音様は、現世の苦しみを救うと言う。
「南無観世音菩薩」と、世界の平和と、
争いのない地球を、深く願ってきた。

参拝を終えたので、せっかくだから、
別所の温泉へ。
よく行っていた石湯は定休日とのことで、
観音様の裏から降りて、共同浴場の大湯へ行く。
中には、年配の方が四、五人。
ほのかに硫黄の香りのする、掛け流しの湯だ。
それほど熱くないので、つい長湯。
扉の向こうに、小さな露天風呂も作られていて、
こちらも気持ちがいい。

 

さて、風呂も上がり、
もう一つの精進落としをしなくてはいけないな、
と思いつつも、そんな場所もなく、駅に着いてしまった。
別所線といえば、丸窓電車で有名だった。
昭和の初めに造られて、昭和の終わり頃まで、
ここを走っていたのだ。
その電車が、駅に保存されている。
車体は鋼鉄製だが、窓枠などは木製のようだ。
手入れをするのも、大変なことだろうと思う。
この丸窓から、まだ、家の少なかった、
塩田平の風景を眺めていた私がいたのは、
いつのことか。
ああいやだね、年寄りは。

 

上田駅に着いたら、駅のコンコースに焼き鳥屋がある。
私は酒は苦手なのだが、
お参りの後には、精進落としをしなければならない。
仕方なく、そのカウンターで、ビールのジョッキを傾ける。
メニューを見たら、サワーとか、ハイボールばかり。
お兄ちゃんに、日本酒はと尋ねたら、
なんと、冷蔵庫にゴロゴロとしているではないか。
そこで上田の酒「亀齢(きれい)」のひとごこち純吟なんぞを。
すっと、喉に落ちていく、後味の残らない飲みやすさ。
酒が苦手な私にも、いい酒であることがわかる。

と言うことで、精進も落とし、
上田の駅前に降り立ったのだが、
なにやら、どっと疲れが。
来る時は、一時間かかって、しなの鉄道で来たのだが、
帰りは新幹線で。
長野まで、十分もかからないのだからね。
この頃の、歩き不足が身に染みた午後。

ひっそりと桜まみれ

 
 
毎週水曜日の定休日には、

自宅から車で5分ほどの、
畑に通う。
犀川の河川敷の、
およそ百坪ばかりの畑だ。

その畑に通う、堤防通り沿いに、
約二十本の桜の木が植えられている。
小さかったそのソメイヨシノも、
今は育って、毎年、
目を楽しませてくれる。
その花を見るたびに、
さあ、花見へ行くぞ、、、
いや、行かなくてはと、
心が騒ぐのだ。

桜の花との出会いは、
タイミングが大切。
かの、在原業平(ありわらのなりひら)でなくとも、
この季節は、落ち着かない気分だ。
まして、この時期、
畑の準備に忙しい。
二日間の連休をとっても、
土をいじっているだけで終わってしまい、
花見どころではない。
そこで、もう一日、お休みをいただいた。
まさに「お花見休み」だ。
さあ、どこへ行くか。

この歳になると、
華やかに咲くソメイヨシノは、
どうも、眩しくて目に痛くて仕方がない。
人混みは億劫だ。
世の中の、隅っこに、
こぢんまりと生きている身としては、
どこかに、ポツリと咲いている、
古い桜を訪ねたい。

幸いなことに、
住んでいる長野の周辺には、
時代を生きた、
古い桜の木が、結構残っているのだ。
毎年、少しづつ、そんな場所を巡っている。

この時期に、咲いている場所をと、
探して、バスに乗って出かけようとしたら、
女将が、膝が痛いなどと言い出す。
下僕としては、仕方がないので、
車に乗せて、お運びすることになる。
だから、今回の花見は、
私の苦手な、お酒は抜きなのだ。
苦手は克服しなければならない。
桜の花の下ならば、
そんな苦手なお酒も、
少しは飲めるだろうと思っていたのに、
残念!!!

長野市の東、若穂地区、
やや、登ったところにある古刹、蓮台寺。
その、仁王門前の駐車スペースに、
車を止めた途端、桜まみれとなる。
平成になって再建されたという仁王門に、
被さるように、
樹齢四百年以上といわれる、枝垂れ桜が咲いている。
勢いのある、見事な咲っぷり。
本堂への階段を登って、
鐘楼のある門をくぐれば、
さらに二本の枝垂れ桜が迎えてくれる。

この石段にしても、
こんなに雰囲気のあるお寺が、
近くにあったのだね。

それから、須坂の豊岡地区。
大日向観音堂の枝垂れ桜、
長妙寺の枝垂れ桜、
延命地蔵堂のアズマヒガン。

そして、狭い山道の急坂を登ったところにある、
弁天さんの彼岸桜。
こちらは、標高の高い場所にあるので、
まだつぼみだ。
周りの景色もいいので、
咲いていれば見事だろう。
ぜひ、その時期に来て見たいものだ。

桜を見上げると、
人は呆けたような顔になる。
きっと、桜の花の方から見れば、
相当な間抜け顔に見えることだろう。
そんな間抜け顔を、
あと何回できるのかな、、、。
ああ、そんなことを考える歳になってしまった。
変わりゆく季節を、
大切に味わいながら、
でも、ひっそりと暮らしていきたいものだなあ。
苦手な酒を、いつか克服してね。

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蓮台寺仁王門の枝垂れ桜
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蓮台寺本堂への石段
桜に囲まれて、鐘楼の鐘が、おのずから鳴り出しそうな気配だ。
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大日向観音堂の桜。推定樹齢250年。
少し前まで、もう一本の桜があり、夫婦桜と呼ばれていたらしい。
その根元が残っている。
右側の小さな木は、孫の桜だそうな。
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延命地蔵堂のアズマヒガン。推定樹齢430年。
樹形が美しい桜だ。
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長妙寺の枝垂れ桜。推定樹齢400年。
太い幹が途中で折れて、新しい枝が伸びている。
隣の若い枝垂れ桜も見事だ。
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弁天さんのしだれ桜。推定樹齢250年。
残念ながら、まだつぼみ。
周りの畑の梅の花が咲いていた。

新宿の猫と、一杯飲んでみる。

コインロッカーの使い方がよくわからない。
支払いスペースの横に、
細かい字が書いてあるのだが、
天井の照明で光ってよく読めない。
反対側では、スカーフを髪にかけた、
アジア系の女性が、英語で書かれた、
説明書を読んでいる。

どうやら、緑色のランプのついたロッカーに、
荷物を入れて、それから、
この機械で手続きをするらしい。
で、緑色のランプのロッカーはと探せば、
ああ、かのスカーフの女性が、
小型のスーツケースを入れるところではないか。
あとは、全て、赤ランプ。
一番下の、大型トランク用のロッカーが空いていたと思ったら、
すぐに、埋まってしまう。

新宿駅の南口にある、
高速バスターミナル。
100個以上はあると思われるコインロッカーは、
全て使用中。
大型のスーツケースを脇において、
空くのを待っている外国人もいる。
そこを諦めて、
甲州街道ガード下のコインロッカーへ。
荷物を預けると、
出てくるのは、鍵ではなく、
何やら模様の入ったレシート。
出す時には、この模様を、
どこかに押し付けるらしい。
まったく、時代の変化に付いていけない。

旅に出ると、
世の中のシステムが、
大きく変わっていることを実感する。

高速バスのチケットは、
携帯電話に送られてきて、
その画面を示すだけ。
電車の切符は、
予約しておいた乗車券を、
機械で受け取る。
その紙の切符で改札を通ろうとしたら、
あれっ、入れる穴がない。
なんと、IC専用の改札機だって。
特急券は、やはり、携帯の画面に。
ホームで売店で、
飲み物を買おうとしたら、
無人のキャッシュレス専用レジ。

普段から、使っている方だったら、
なんの不便もないのだろうが、
何年かぶりに東京に出てくる身としては、
戸惑うばかり。

伊東からの帰り道。
ほかに用事のある女将と別れ、
高速バスの発車までの三時間弱を、
この新宿の街を一人で歩いて過ごす。
二十代前半まで、東京で暮らした私にとって、
新宿は懐かしい街だ。

だいたい、コインロッカーのある、
甲州街道のガード下の景色が違う。
今もあるはずなのだが、
このあたりは、馬のファンが集まるところで、
土日などは、大騒ぎだった。
そういう人を目当ての屋台が並んでいたっけ。

そこから入る武蔵野通りも、
まったく、違う風景。
大型の量販店と、さまざまな飲食店。
とにかく、夕方間近の時間だというのに、
歩く人が多い。
あれ、映画館、武蔵野館の大看板はどこへいったの。

それでも、懐かしい店、
ビアホールの銀座ライオンは健在。
突き当たって、新宿通りに出れば、
正面が紀伊國屋書店。
そして、左に曲がれば、
新宿中村屋、その先に高野フルーツパーラー。
この辺は変わらないね。

でも、あまりの人混みに、
やや、混乱気味。
静かな場所を求めて、
中村屋のビルに入って、
中村屋サロンへ。
入場料300円。
それで喧騒から離れた、
小さな、小さな、美術館へ。

新宿中村屋を始めた相馬愛蔵は、
長野県の安曇野の出身。
最初はパン屋だった中村屋を、
少しづつ大きくしながら、
しっかりとしたブランドに育てたのだね。
そして、多くの芸術家と交わり、
時に援助し、助けられたりしたのだ。
特に、彫刻家の萩原禄山(ろくざん)とは親交が深かった。
その話は、いくつかの小説の題材にもなっている。

そして、その禄山の代表作、
「女」が展示されていた。
それだけは写真を撮っていいというので一枚。
実は禄山は、相馬愛蔵の妻、国光(こっこう)に、
想いを寄せていたという。
安曇野には、禄山の美術館があるが、
若い時に訪れてから、この話を知った。

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サロンには、歌人でもあった、
会津八一の書があった。
中村屋の羊羹の上書きをしたのだ。
棟方志功が描いた包み紙もあった。

これだけの人混みの中から、
ほかに来る人もなく、たった一人で過ごしたサロン。
エレベーターを降りて、再び人混みの中へ。
このギャップはなんだ。

東口の広場に出れば、
大勢の人が、斜め上を見上げている。
アルタビルの大きな映像を見ているのかと思ったら、
その向こうに、大きな猫の映像が。
なんじゃこりゃ。
話には聞いていたが、
なかなかリアル感があって、
はっきりと見える。

リアルと言いながら、
本物の猫とは違う存在感があり、
よく作られている。
すごいなあ、
新宿という街は。
常に、新しいことに、
挑戦し続ける街なのだ。

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私が、紅顔の中学生だった頃まで、
ここから歌舞伎町方面に抜けた靖国通りには、
まだ、都電が走っていた。
東口の広場では、
裾の開いたジーンズを履いた、
長髪の若者たちが、
虚な目をしてシンナーを吸っていた。
西口では、
週末になると、反戦フォークソングの集会が、
自然発生的に広まり、
やがて、それを規制する機動隊と、
鬼ごっこをしていたっけ。

少しづつ、時代が動いて、
文化的な運動が盛んになった。
唐十郎は、神社の境内に赤テントを張って、
新しい芝居を始めた。
寺山修司も、劇場を離れ、
この街の路上を舞台に演じたものだ。
紀伊國屋の裏のジャズスポットで、
渡辺貞夫や日野皓正が熱い音を吐き、
歌舞伎町のカントリーバーでは、
ジミー時田やマイク真木が渋い声を聴かせた。

新宿文化劇場(のちのアートシアター)では、
先鋭的な映画が上映されていたし、
その横のミニシアターでは、
浅川マキが、あのしゃがれ声で歌っていた。
寄席の末廣亭では、
彦六(八代目林家正蔵)が、
か細い声で話し始め、
やがて、場内を圧倒していた。

アルタだって、
そこは二幸という、
食料品店のビルだったのだ。

えっ、知らない。
そうだろうねえ。
悔しかったら、70まで生きてみるとわかるよ。
記憶がだいぶ曖昧になっているけれど。

東口から、西口への地下道を通れば、
そこは、相変わらず、
ホームレスの方々の居場所。
西口に出て、ガード沿いに歩けば、
えっ、「思い出横丁」だって。
そんな名前で、
誰も呼ばなかったなあ。

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若い時に、よく通った店は健在。
まだ、午後4時台だというのに、
酒を飲む人たちで、
八割がたが埋まっている。
いくつかの背中をすり抜けて、
奥まった席へ。
隣の中年の二人のサラリーマンたちは、
すでに、出来上がっていて楽しそう。
逆の隣の、初老の紳士は、
こちらをチラチラとみて、
話しかけたがっていた様子だが、
私は、ノスタルジーに浸りたいのだ、
放っておいてくれ。

金もない、二十台前半の頃、
よく、この店で過ごしたものだ。
今でも、まだ苦手な、酒を飲みながらね。
でも、見渡してみれば、
島になったカウンターを囲んでいるのは、
ほとんどが、中年以降の年齢の方。
長く店を続けているということは、
それぞれの思い出を抱え込んでいるのだ。

この店が、
ある映画のワンシーンに映ったことがある。
ブラッドピットや役所広司の出る映画で、
ちょっと大切な気分を表現する場面だった。
映画館で見た時、
すぐ、この店だとピンときた。
それ以降も、内装も、外見も変わらずに、
そして、スタイルも変わらずに、
商売を続けているのだ。
すごいなあ。

高速バスの時間もあるので、
思いを切り捨てて、席を立つ。
横丁を歩けば、
派手な飾り付けをした店もある。
外国人が、かなり入り込んでいる。
昔からそうなのだが、
この横丁には、
だいぶ怪しい、いや、
値段の不確かな店もある。
ここは、スマホでは検索できない世界。
そういう店に、大当たりするのも、
横丁歩きの、醍醐味なのだ、、。

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西口の広場に出てみれば、
見慣れた小田急デパートの建物がなくなっている。
こらから、数年にかけて、
西口一体は、
大規模な再開発が行われるらしい。
街は、私があくびをして、
ボケーとしている間に、
どんどんと変わっていくのだ。

考えてみたら、この西口だって、
柵に囲まれた草原だった。
それが、栄養の悪いタケノコのように、
ニョキニョキと、高いビルが、
空に向かって聳えていったのだ。

人は、四角四面のビルの中だけでは、
生きられないのだろうなあ。
高いビルは、深い影を作り、
隠れたところに、
雑多な交わりの場所を育む。
そういう雑然とした世界の中で、
新しい考え方や文化も、
生まれてくることだろう。

だから、この街、
新宿は魅力的なのだね。
私も、たまには、
足を運ぶように心がけよう。
硬くなり始めた頭を、
解きほぐすようにね。

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昭和初めの、文化財の宿に泊まった伊東。

伊東の駅は、
海に近いことを知っていた。
東京に住んでいた若い頃に、
日帰りで泳ぎに来た覚えがあるからだ。
だから、電車から降りれば、
海の香りがするかな、、
と思っていたのだが、
クンクンクン、
そんなことはない。

今は真冬の真っ只中。
最も海の香りのない季節だ。

ならば、
町中のいたる処に湧き出している、
豊富な温泉の匂いがするかと思えば、
クンクンクン、
そんなこともない。
このの湯は透明で無臭なのだ。
草津や渋みたいに、
街に入ったとたん、
温泉らしい硫黄の匂いが鼻をつくわけではない。

昭和の時代には、
おそらく旅館の名の入った送迎バスで溢れていただろう。
のぼり旗を持った、はんてん姿の番頭さんたちが、
電車の着くごとに、予約のお客さんを迎えたいたことだろう。
そんな、どこでもあった温泉町の駅前の風景は、
今は昔。
閑散としたロータリーで、
タクシーの運ちゃんが、大欠伸をしている。

そんな伊東駅前は、
いかにも、これから三日間の休みを送るのにふさわしい、
のんびりとした雰囲気なのだ。
冬だというのに、寒さを感じさせない、
この空気感がいい。
やっと取れた、遅ればせの正月休みを、
暖かなところで過ごしたい、、。
そんな、ジジイ、ババア臭い発想で、
風の冷たい長野からやってきた。

泊まった宿が、
昭和の初めに建てられたという、
木造三階建の古い旅館。
なんと、国の登録文化財になっている。
そこが、いまは、ゲストハウスに。

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その入り口の雰囲気からすばらしい。
お寺の入り口のような、
彫り物の入った屋根。
入り口のガラスの引き戸には、
以前の宿の名が金文字で入っている。
中に入れば、けやき張りの広い廊下が。

部屋は三階の一番奥の突き当たり。
その階段が、複雑に入り組んでいるあたりが、
古さを感じさせる。
館内の表示は横文字ばかり。
そう、本来は、外国人向けのホステルなのだ。

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夕方、一階の共有スペースで、ビールを飲んでいたら、
大きな荷物を持った外国人たちが、
続々と入ってくる。
その半分ぐらいはアジア系の旅行者だ。
外国人のスタッフもいて、
英語で、一通りの説明を受けた後、
鍵をもらって、それぞれの部屋に入っていく。

彼らに、この日本の古い建物は、
どのように写っているのか。
古い畳の部屋に、
自分で布団を敷いて眠るのだ。
私たちには当たり前だけれど、
貴重な体験ができるに違いない。

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地下に温泉の浴場がある。
それほど大きくはないが、
ここだけは、新しく改装されていて、
大理石張りの壁に囲まれた、
モダンな浴室だ。
分福茶釜の湯口から出る湯は、
もちろん源泉掛け流し。
加水も加熱もしていないそうだが、
熱くも、温くもなく、匂いもなく、
気持ちのいい湯だ。

あれだけの外国のお客さんが来たのだから、
さぞ、混んでいるだろうなあと思ったら、
いつも一人でゆっくり入れる。
たまに、外湯めぐりの日本のおじさんがいたが、
外国人とは会わなかった。
そうか、外国の人には、
こういう大風呂に入る習慣はないのだろう。
赤の他人と、裸で向き合うことはないのだ。

でも、2箇所ある小さな湯船の貸切風呂には、
いつも使用中の札が掛かっていたから、
こちらを使うのだね。

古い木造の建物だ。
これだけの人が泊まれば、
さぞ、音が響いてうるさいだろうなあ、
と覚悟していたのだが、
とても静かだった。
部屋には、耳栓が用意されていたにも関わらず。

外国の人たちも、廊下や階段を、静かに歩くし、
行きあえば、軽く目で挨拶をする。
スタッフが気を遣っているのかもしれないが、
共用のキッチンも、いつも綺麗に片付いている。
皆さん、この古い建物の宿にリスペクトの念を、
しっかりと持たれている気がする。

かえって、我々日本人の方が、
それを忘れているのではないだろうか。

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70歳というジジイになると、
旅館に泊まるのが怖くなる。
人的サービスが有り余っていた昔ならともかく、
最近の旅館は制約が多い。

その一番は、夕食だ。
これでもかと、テーブルにいっぱいの料理を並べてある。
見た目は綺麗かもしれないが、
普段は夕食を軽くしている私たちには、
それを、見ただけで腹一杯になる。
しかも、私の世代の常として、
料理は残してはいけない、、
というバイアスが入ってしまうのだ。ふう。

一晩かけてお召し上がりくださいというならいいが、
たいていは、苦手な酒を、
無理して味わう暇もなく、
1時間ほどで、部屋に追い払われる。
朝食なんぞ、8時からですと一方的に言われ、
5時に朝風呂を浴びた後の時間を持て余す。
仕方ないので、自動販売機にある飲み物を、
いやいやながら、飲んで待っていると、それでも足りず、
もう一つ、もう一つと飲んでるうちに出来上がって、
朝飯を食った後に眠くなる。
えっ、それで10時が追い出し時間、いやチェックアウトだって。

だから、山の中の宿ならともかく、
ほかに食事の取れるところがあるのなら、
素泊まりの方が気楽なのだ。
まして、このようなゲストハウスは、
自由に使えるキッチンがあるのが嬉しい。
近くのスーパーで、
静岡名物「黒はんぺん」なんぞを買ってきて、
朝食に焼いて食べる。
もちろん、冷蔵庫には、
自分の名前を大きく書いた、
缶ビールを入れておく。

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その宿の隣も、
やはり、昭和の初めに建てられた元旅館で、
似たような外見だ。
こちらは、伊東市の博物館になっていて、
昔の旅館文化を伝えている。
床柱や、明かり障子などに、
独特の意匠を凝らした部屋が残っている。
大勢いたという、芸者を呼んで、
宴会をしたという大広間も残っている。
ここでは、今でも、芸者の講習会が開かれているという。
それも、観光客向けに。
その会場となっているようだ。

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若い人には、
ボロ宿にしか見えないかもしれないが、
昭和の高度成長の前の世界を知っている、
まだ死にかけないジジイには、
懐かしく、
気持ちを落ち付かせる宿なのだ。

夜になれば、
古賀政男のギターの音色なんぞを、
頭の中に響かせながら、
街を歩いてみる。
たしか「湯の町エレジー」って、
伊豆が舞台だったよね。

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表通りから外れて、
暗い路地にポツンと灯の入る、
小さな居酒屋に入ってみれば、
なんと、地元の人たちで大賑わい。
後から入ってきた人が断られていたから、
カウンターに座れた私たちはラッキー。

刺身を頼んでみれば、
山国の長野とは、
全く次元の違うものが出てくる。
ううん、冬のメジは美味いなあ。

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しかも、静岡の銘酒が、
それも、純米吟醸クラスの酒が並んでいるので、
苦手なお酒を克服するべく、
不本意ながら、徳利を傾ける、、、。
次の日も、夜はこの店に、、。

という、
伊豆の伊東での三日間。
のんびりと、気楽に過ごせたかな。

湯めぐりの伊豆、伊東

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海から昇る朝日を見ながら、
温泉に浸かることができる。
そう聞いて、5時半に宿を出た。

真っ暗な海沿いの国道を歩くこと30分、
目指す温泉施設に行き着いた。
海はまだ暗い。
水平線のあたりが、少し明るくなっているが、
雲のせいか、ぼんやりとしている。

そこは、伊東マリンランドと呼ばれる、
観光客向けの大型施設だ。
その一角に、その名も「朝日の湯」という、
温泉があるのだ。
私たちは、伊豆半島の伊東に来て、
三日目の朝を迎えるところだ。

入場料を払って二階に登ると、
風呂の入り口に「本日の日の出」、
6時48分と書かれている。
しまった、早すぎた。
まだ6時になったところだ。

隣のレストランは6時からの営業とのことで、
開店準備をしている。
さっと風呂に入って、ここでビールでも飲みながら、
朝日を拝むか。

風呂に入って驚いた。
先客が10人近くいる。
もっとも、かなり広い浴槽なので、
そのくらいならばガラガラなのだが。

ほとんどの人が、
ぼんやりと窓の方を見ながら、
湯に浸かったり、椅子に腰掛けている。
その窓は、湯気で曇っていて、
果たして、夜明けの薄明かりなのか、
すぐ下の、ヨットハーバーの明かりなのか、
よくわからない。
しかし、東の海に向いているので、
晴れていれば、これから、朝日が差し込むことだろう。

なにやら、身体も心も弛緩しきっている老人たちの中に、
自分も吸い込まれそうな気がして、
早々に、湯を上る。
そうしたら、女将はすでに上がっていて、
女湯には誰もいなかったという。
朝6時に暇にしているのは、ジジイばかりのようだ。

レストランでは、ちゃんとしたアジの干物定食が食べられる。
釜揚げしらす丼も。
もちろん、生ビールもね。

昨日も、宿の近くの公園に、朝日を眺めに行った。
そこには伊東を拠点に制作を続けている、
重岡健治さんの作品が並んでいる。
彼の重厚な彫刻と、海の風景は、よく似合っていそうだ。
だが、雲が多いのと、その場所からは、
朝日は、海からではなく、山から昇るようだった。

今日は、くっきりと、
海から昇る朝日を見たい!
予報も快晴。

そう思って、
早起きをして、歩いて、ここまできたのだ。
ところが、レストランの窓越しに、
ヨットハーバーの上から出た朝日は、
なんともふてぶてしい。

まるで、独身最後の日のどんちゃん騒ぎのあとのような、
二日酔いの目をしていた。
あるいは、眠たくてしょうがない子猫が、
無理やり起こされて、
仕方なしに半分目を開けたような、
そんな太陽だった。

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高い山に登って、山小屋に泊まった時、
そこから見る朝日は素晴らしい。
その陽が、山々の頂を照らし始める時、
まるで、ベートーベンの五番が響くようだ。
茜に染まる雲を従えて、
これから1日の始まりを、
神々しく伝えるのだ。

それに比べて、
この日の出はなんだ。
時間が来たので、
仕方なしに出ました。
まるで、出来損ないのサラリー、、、
いや、彼らだって大変なのだ。
たまたま今日が、
そんな気分だっただけなのかもしれない。

そうなれば、こちらも気分を変える。
一度、宿に戻る予定を棄て、
伊東駅から電車に乗って、
波打ち際にあるという露天風呂に向かう。

30分の乗車で降りたのは、
伊豆北川駅。
これ、「いずほっかわ」と読むのだね。

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露天風呂は10時からと聞いていたから、
まだ一時間以上。
仕方がないので、海を望む公園があるというので、
急な坂を登ってみる。
展望は樹木に囲まれて、大したことはない。
大島が、海鼠みたいにぼんやりと横たわっている。
城ヶ崎海岸の、切り立った崖が見え、
その上に、丸い山頂の大室山が、
トトロの頭のように、
ニュウと突き出している。

晴れの予報だが、
全体に雲が薄くかかっているような感じ。
だが、春のような、
艶かしさはない。

でも、広場を見渡せば、
周りに立派な桜の木が。
花見には賑わう場所なんだなあ。

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小さな港まで降りて、
海沿いの堤防を歩いていく。
海の反対には、
6、7階はある、
高級そうなホテルが並んでいる。
なるほど、部屋の窓からは、
すぐ前が海、
最上階の露天風呂からは、
それを楽しめるというわけだ。

この堤防の道は、
ムーンロードと名付けられている。
ここも東向きの海に面している。
時として、素晴らしい朝日が眺められるはずだ。
なぜ、サンライズではないのか。

なんて、言いながら、
せっかく休みに来て、
朝日の昇る時間に起きる奴がいるかと気がついた。
そんなことを喜ぶのは、
私のような、むこう向きのジジイだけだ。
まして、夏の暑い太陽に照らされながら、
コンクリートの堤防道路を歩く辛さは、
容易に想像できる。

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んなことを考えながら着いた、
黒根岩風呂。
入り口で700円なりを払って、
階段を降れば、
まさに波打ち際。
簡単に囲っただけの脱衣場。
中に入れば、先客が二人。
直径5メートルぐらいの、
岩で囲まれた湯船が二つある。

湯気の具合で熱いかと思ったが、
それほどでもなく、
ゆったりと入れる。

そして、確かに目の前が海。
まさに、目の高さに海があるのだ。
これは初めての経験。
目の前の岩に、
波が砕けている。
波の荒い時はどうするのか。

実は、この湯は、
荒波に何度も飲み込まれ、
その都度に、
地元の人たちの協力によって、
作り直されてきたらしい。
だから、脱衣所だって、
こんな造りなのだ。
いざとなったら、
波に飲みこまれる覚悟で、
入る湯なのだ。

だいたい、伊豆半島は、
数千万年前、南から流れてきたのだそうだ。
ぷかぷかと浮いてきたのではない。
フィリピンプレートというものに乗り、
日本列島に、ドスンとぶつかってきたそうだ。

その勢いで、地面が歪んで、
丹沢などの山ができた。
富士山などは、その後に出来た、
新しい山らしい。
いまだに、この伊豆半島の、
日本列島への働きかけが続いているのだね。

だから、伊豆には、温泉が豊富だ。
場所によって微妙に温度も質も違うらしい。
北川から一つ先の熱川では、
ゆで卵ができるぐらい熱い湯がでる。
宿にした伊東では、50度前後の、
なめらかな湯がでる。
ここの宿の湯もいいが、
割引券をもらって行った、
他の旅館の湯は、
ややアルカリが高くて、
肌がスベスベする。

伊東市内には、
地元の人向けの銭湯のような温泉が、
数多く見受けられた。
どこも、違う源泉を持っているようだ。
豊富な湯が出るということは、
目に見えない、
地の中に、熱いものを抱えているからだろう。

そんな伊豆半島の特徴に、
深い海を持っていることがある。
海岸から海に出れば、
すぐに、ぐっと深くなるのだ。
だから、本来は深海に棲む金目鯛などが、
伊豆の名物になる。

この黒根岩風呂から見る海も、
波は直前になって崩れる。
遠浅になっていない証拠だ。
ということは、、、。

深い海に住む、ゴジラが顔を出してもおかしくはない。
ゴジラの体を隠すぐらいの深さはありそうだ。
目の前に、にゅうと、顔を出して、
こちらを睨んだりしないだろうか。
期待して海を見つめていたのだが、
そのうちに、湯にのぼせてしまった。
忙しいのだろうなあ、ゴジラ君も。

そんなことで過ごした、
伊東の三日間。
あっという間に過ぎてしまった。

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恥ずかしがり屋の天狗岳へ

ええい、
晴れろ、晴れろ。
チチンプイプイ、キリよ晴れろ!

九月初めの八ヶ岳、
天狗岳へ続く稜線。
ノロノロ台風も、
もういなくなるだろうと思っていたのに、
この、モヤモヤとした天気はなんだ!

東天狗岳頂上まで、あと、30分もかからない。
なのに、私たちは躊躇していた。
また登っても、霧に包まれて、
何も見えないのではないか。

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山頂から、硫黄岳はおろか、
赤岳や阿弥陀岳も望めないのではないか。

宿泊した本沢温泉から、
急な山道を登って、
この稜線にやっと辿り着いたところ。
隣には、もうこれ以上登りたくないオーラを発している誰かがいる。

半ズボン姿の、若い人たちが、
楽しげに話しながら、稜線のガスの中に消えていく。

岩に腰掛けて、迷うこと15分。
ついに私たちは、イソップの狐となる。

どうせ登っても、何も見えないさ。

登るつもりだった天狗岳に背を向けて、
緩やかな登りの根石岳に歩を進める。

実は、四年ほど前、同じ時期に、天狗岳に登っている。
その時は、西天狗方面から登ったのだが、
東天狗山頂は、猛烈な東風とガスで、
立っていられないほどだった。
ただ、山頂の標識を確認しただけで、
風に煽られないように、
短い鎖場を降り、岩場を下った。

寒くはないが、風で体温が奪われるので、
荷物が吹き飛ばされないようにしながら、
ウインドブレーカーを身につけた。
そして、この白い砂が敷き詰められたような稜線を、
登山道沿いに張られた、
緑色のロープを手掛かりに、歩いたのだ。

その時の、必死の思いを浮かべながら、
根石岳まで来て、ふと振り返ると、
なんだ、この光景は。

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東天狗も、西天狗も、
綺麗に晴れ上がっているではないか。
先ほど登って行った若者たちが、
山頂に立っているのが見える。
ああ、運命の神様。
私はあなたを、くすぐり倒したい。

ということで、
すぐ近くの根石山荘で、
仕方がなしに、私の苦手なビール。
四年前、強風と深いガスの中で、
この山小屋の看板を見つけた時に、
どれだけ、ほっとしたことか。

標高2500メートルに、
こういう山小屋があるのは素晴らしい。
ここで、西天狗岳をを眺めながら、
手作り感あふれる、ビーフシチューなどをいただく。

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でも、食事を終わって山小屋をでると、
山はまた、ガスに包まれていた。
おまけに、ぽつりぽつりと、当たり始めていたりしてね。

今回は、歩かなければ辿り着けない温泉、
本沢温泉に一泊の予定だった。
でも、すぐ真上に天狗岳があるではないか、
ぜひ、リベンジしたい、
ということで連泊。

ここは、日本一高いところにある露天風呂で有名。
でも、ご覧の通り、脱衣所も何もない場所。
本沢温泉の建物から、10分ぐらい登ったところにある。

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私たちの行った時には誰もいなくて、
チャンスと思ったのだけれど、
湯に手を入れてみたら、かなり熱い。
ちょっと入れないぞと思ったが、
それでもと思って入ってみた。

少しでも動くと、ピリピリとする熱さ。
でも、こういう色の温泉にしては、
上がっても、さっぱりとした泉質だ。

一緒に行った誰かさんは、
足をつけただけで、熱い!と言って入らなかった。
後で聞いたが、板で掻き回すと、少しは入りやすくなるとのこと。

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本沢温泉には、内湯もあり、
こちらは茶色く濁った、別の泉質。
こちらもいいお湯だ。
山小屋なので、8時に消灯だが、
その後、ヘッドランプを点けて、
入るのも乙なもの。

食事は簡素にして十分な、
山小屋のらしいもの。
北アルプスで食べさせられるカレーライスより、
よっぽど気が利いている。
食堂の外に、小鳥の餌台があり、
綺麗な色の「ウソ」が。

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なのに、お酒は充実している。
私は苦手なのだが、
少しでも山小屋の売上にと、
頑張って試して見る。

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そして、山を下る三日目の朝。
なんと、空は綺麗に晴れ渡っているではないか。
どうして、私たちには、
この青空が付いてこないのだろう。
これから、硫黄岳と天狗岳に登るのだ、
というご夫婦を、羨ましく、見送った。

稲子湯登山口まで、
普通は2時間半ぐらいの道を、
私たちは、4時間以上かけてゆっくりと下った。
途中のみどり池からは、
昨日登りそこなった天狗岳が、
くっきりと望める。
またいつか、
というのは、もう70歳を過ぎた私たちには、
ないかもしれない。
だから、その姿を、くっきりと目に焼き付けておくのだ。

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本沢温泉までなら、
もう一度来られるかなあ。