手打ちそば屋は眠れない

石山寺と三井寺、女性たちも戦っていた。

大津にある三井寺の観音堂からは、
大津の街と、琵琶湖が望まれる。
それもそのはずだ。
本堂のある場所から、
急な階段を、ヒイコラ言いながら登ってきたのだ。
ううん、膝が痛い、歳をとるのは嫌だなどと、
日頃の運動不足は棚に上げている。

今村翔吾の直木賞受賞作品である、
「塞王(さいおう)の楯」の中で、
ここ三井寺に大砲を担ぎ上げて、
大津城に向かって、弾丸を放つシーンがある。
関ヶ原の戦いの、わずか数日前のことだ。

東軍である家康側についた京極高次(きょうごくたかつぐ)が、
俄かに大津城に立て籠ったのだ。
これを西軍が取り囲むが、
城はなかなか落ちない。
そこで、滋賀の鉄砲鍛冶、
国友衆が作った大砲をここから打ったのだ。

大津城は、今は何もないが、
琵琶湖の際に造られていたそうだ。
マンション群の立ち並ぶ大津の街を飛び越えて、
大砲の玉は、その場所まで届いたらしい。
事実、何発かは天守に当たり、
驚いた高次は城を明け渡すことを決意する。

それが、関ヶ原の戦いの1日前。
実際に開城したのは、その当日だったのだ。
つまり、この大津城攻めに参加した西軍の兵士たち、
一万五千とも、二万とも言われているが、
天下分かれ目の戦いに間に合わなかったことになる。

戦いのあと、家康は、このことを評価し、
僧になった高次を呼び戻して、大名に取り立てた。
ちなみに弟の京極高知は、東軍として、
関ヶ原の戦いに参加しているのだ。

この京極高次は、名門の生まれでありながら、
戦国大名としては、異色な生き方をしている。
なにしろ、運が悪いというか、先を見る目がないというか、
身を預けた勢力が、ことごとく負けているのだ。
明智光秀しかり、柴田勝家しかり。
それでも、生き延びたのは、妹や妻のおかげ。
妹が秀吉の側室となり、松の丸殿と呼ばれた。
妻のお初は、あの浅井三姉妹の二番目、
つまり、淀殿の妹なのだ。

だから、大津城開城でも生き延びたのは、
淀殿の計らいがあったと言われているそうだ。

そう、そうして、
やっと、淀殿のお話。

大津といえば、
この三井寺と、もう一つの石山寺。
この日朝に、この石山寺を訪ねてきた。

琵琶湖から流れる唯一の川、
瀬田川のほとりにあって、
奈良時代に造られたという、由緒あるお寺。
平安時代には、京の貴族たちが、
こぞって参拝しに来たという。
あの紫式部も、ここに滞在中に、
源氏物語の構想を得たとされている。

一番高いところに立つのが、
国宝の多宝塔で、
源頼朝が寄進したという。
何やら、時代感覚が狂ってしまいそうな寺なのだ。

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ところがこの場所、
京から東へ向かう交通の要所。
何かあるごとに、
兵の集まる場所となったようだ。
平家物語でも、太平記でも、
この寺の名前が出てくるのだから。

この寺に向かう、入り口の門がすごい。
なんと、鎌倉時代のもの。
立っている仁王は、運慶、湛慶の作だとか。
埃だらけだけどね。
だけど、関ヶ原の戦いの頃には、
この門もだいぶ傷んでしまった。
そのときに寄進して大修理をしたのが、
誰とは言わん、淀殿だった。

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淀殿は、国宝となっている本堂の修理も行なっている。
懸崖づくりの部分は、その時に増設されたものだという。
これは、関ヶ原の戦いの後にも続けられているから、
けっして、家康が勝ったからといって、
領地を減らされたからといって、
豊臣の権威が失われたわけではないのかもしれない。

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一方の、この三井寺だって、
園城寺(おんじょうじ)とも呼ばれるが、
七世紀に造られたという、
歴史のあるお寺。
ところが、秀吉は、
晩年になって、突然、この寺を廃止してしまう。
以前の戦の時には、さんざん利用したのにね。
そのため、お堂や建物の多くは、
信長の焼き討ちにあって再興中の、
比叡山に移されたという。
その廃止令は、秀吉の亡くなる直前に取り消されたそうだが、
境内には、何もなかった。
そこでと、今は国宝となった本堂、
金堂を寄進したのが、
秀吉の正室である、「ねね」こと、北政所(きたのまんどころ)なのだそうだ。

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金堂の落慶が、関ヶ原の戦いの前の年となる。
これだけのものを建てるということは、
北政所にも、それなりの権限があったのだろう。
加藤清正、福島正則などの、
秀吉の子飼いの侍たちにも、
慕われていたらしい。

以後、家康も、伏見城にあった門や、
三重塔を移築した。
家康も、北政所には、敬意を払っていたとか。

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さて、秀吉は、どうも女癖が悪かったようだ。
側室と言われる女性を、
何人もかかえてきたという。
本当かどうかわからないが、
「ねね」が信長に、
戦に出かけるたびに違う女を連れ帰ってくると、
愚痴をこぼして、呆れられたというような話もある。

その女性たちの中で、
嫡男を得たのは淀殿だけ。
豊臣家の唯一の跡取りを産んだということで、
秀吉亡きあと、強い権限を持つことができた。

関ヶ原の戦い前後の、荒れた時代の中で、
微妙な立場をわきまえながらも、
今我々が眺めることのできる建物や
文化を残した女性たちがいたのだ。
彼女たちも、ある面で、
戦っていたのかもしれない。

眺めの良い、三井寺の観音堂。
この辺り、桜の木が多いから、
その季節だったら、素晴らしいことだろう。
こんな、冬空の下しか、
旅をする機会のない自分を呪いながら、
大津の街に向かって、急な階段を降りていった。
膝が痛くて、手すりに掴まらなければならない自分に、
とほほ、と思いながらね。

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