更科の蕎麦はよけれど高稲荷
森を睨むで二度とこんこん
蕎麦研究家の岩崎信也さんの「蕎麦屋の系図」という本に、
こんな、江戸時代の狂歌が載っている。
大田南畝(蜀山人)の作であると言われているが、
はっきりとは、わからないそうだ。
そのそば屋の裏には、稲荷社があり、
高稲荷と呼ばれていたそうな。
だから「高いなり」とひっかけ、
森を「そばの盛り」とみて、
二度と「来ん来ん」と狐の鳴き声にかけている。
このそば屋、
よっぽど値段の高かったようだ。
信州更科蕎麦所布屋太兵衛
しんしゅうさらしなそばどころぬのやたへい
という屋号のそば屋。
創業は1790年と伝えられているから、
江戸は終わりに差し掛かる頃の時代。
創業者は、大名相手に布を売っていたので、
屋号も「布屋」を名乗ったのだね。
もともと信州の出身なので、
当時からイメージの良い信州を頭につけた。
そして更科(さらしな)という言葉を使った。
このいわれには、いろいろな説があるようだ。
ものの本によると、信州更級(さらしな)の地は、
そばの集積地として有名だったから、
その名を取ったのだと。
信濃の更級は、遠く万葉集や古今和歌集にも、
取り上げられる、風光明媚な月の名所。
芭蕉も信州の旅日記を「更科紀行」としている。
場所としては、長野市南部から、
千曲市、坂城町あたり一帯だろう。
かっては、この辺り一帯を、更級郡と呼んでいたのだが、
近年の、市町村の合併により、
この名、地名は地図から無くなってしまった。
でも、この辺りに、蕎麦が集まったとは、
あまり考えられないなあ。
それほど、交通の便の良い地域でもない。
もちろん調べてみなけらばわからないが。
一部に幕府の直轄領があったとしても、
ほとんどが松代藩の領地となっていたようだ。
それに、そばに、「さらしな」という言い方をするのは、
それよりも前にあったようで、
創業より40年前に書かれた本にも、
「さらしな」を看板にするそば屋が何軒かあったという。
商売をするには、
競争相手とは違うことを特徴付けることが大切。
おそらく、布売りをしていた太兵衛は、
そのことを意識して看板を掲げたのだろうね。
場所は、麻布で、一方は大名の屋敷の並ぶところ、
一方は、商家の続きところだというから、
高級にして、調度や備品にも気をつけて、
当時としては高額なそばを売り始めたのだろう。
見事に太兵衛の思惑は当たり、
店は評判となる。
江戸時代が終わって、明治になっても、
店は繁盛し続ける。
そして、その間に、さらに、
粉の製粉方法などを工夫して、
今日の、白い、更級そばの、
元を作っていくのだね。
この店は、昭和の初め、
七代目まで続いていく。
この七代目が、、、
私にとっては、とても魅力的な人なんだなあ、、。
という話は、またいつか。