●お客さまの中には、そばをお好きで、
ずいぶんとたくさん召し上がる方がいらっしゃる。
こんなに、食べられるかなあ、
と思って見ていても、
ちゃんと、お腹の中に入るので不思議だ。
いったいそばは、どのくらい食べれるものだろうか。
そんな、食べ比べは、昔からあったようだ。
例えば、落語の「そば清」。
そば好きの清兵衛さんは、
そば屋で何枚食べられるかを賭けて、
いつも、掛け金をいただいていく。
ところが、ある時、
今まで食べたことのない量を食べさせられる。
さすがに苦しくなった清兵衛さん、
信州で仕入れてきた、ある薬を使うのだ。
その薬と言うのが、実は、、、、、。
まあ、このように、大食いを自慢する人は、
いつの時代にもいるようだ。
●さて、時代は江戸時代中頃、
あるところで、「そばの相撲」が、
大勢の見物人の前で開かれた。
そば喰い自慢の二人、谷村氏と平岡氏の、
どちらの方が、たくさん食べれるかを競うものだった。
二人の前に、それぞれ、
一升以上のそばが盛られた大重箱が置かれ、
勝負は始まった。
それだけでも、かなりの量だ。
食べきれるだろうか。
大勢が見守るなか、
しかし、ふたりは、楽々とその重箱を空けてしまう。
驚いた見物人。
そうして、さらに、椀に盛ったそばを食べ始めたのだ。
さて、このあまりの勢いに、
どちらが勝つかと、楽しみにしていた見物人、
今度は、
そんなに食べて大丈夫なのかと心配になって来た。
二人が21椀づつ食べたところで、
双方とも充分に食べたという。
これ以上は、かえって興ざめになるので、
そばの相撲は、同じ量を食べて、
両者引き分けということになった。
やんやの喝采を浴びた両人。
●ところが、ある人が二人に尋ねた。
ちょうどそら豆ご飯が炊きあがっているが、
食べてみるかと。
ええっ、たっぷりのそばを食べたばかりに、
「そら豆ご飯」だなんて。
そうしたら、平岡氏が答える。
これは珍しい。いただきましょう。
そうして、大盛り二杯のそら豆ご飯を食べてしまったのだ。
人々は呆気にとられて、
肝を潰したそうだ。
そうして、ある人が言う。
そばの量は同じでも、そら豆ご飯を食べた分だけ、
平岡氏の勝ちだと。
人々は沸いたが、
すぐに反論があった。
これはそばの勝負なので、他のものは入れないほうがいい。
結局、そういう意見が多く、
この相撲は勝負なしと言うことになったそうだ。
でも、人々は、平岡氏の大きな胃袋に、
恐れをなしたそうだ。
●こういうそばの食べ比べは、
いまでも、各地で行われている。
長野でも、戸隠のそば祭りの時に、
そば喰いコンクールが行われていた。
でも、さまざまな事情があって、
数年前から取り止めになった。
そばを食べる量より、
そばの質を大切にしたいという、
そば屋の店主たちの思いがあるようだ。
そばの食べ比べでは有名な、
岩手の「わんこそば」。
小さなお椀に盛られたそばの、
食べた数を競うものだ。
盛岡市ではその名もすごい、
「全日本わんこそば選手権」なるものが、
毎年開かれている。
今までの最高が、時間無制限時代の(今は15分)、
559杯。
説明によると、10杯で、
軽めのせいろ一枚分ぐらいだというから、
せいろで55枚分。
え〜、え〜!!!!。
どこに入るのだろう。
●江戸時代に行われた「そばの相撲」。
実は、こんな後日談がある。
そばを食べたあと、そら豆ご飯を食べた平岡氏。
一、二年後に、内臓を痛めて、
長く患い、とうとう亡くなってしまったそうだ。
一方の、谷村氏。
好きなそばを食べながら長生きしたそうだ。
まあ、好きなものを、腹一杯食べるのもいいけれど、
ほどほどということも、
大切なようで。
そばコラム
夏のそばを「まずい」とはいわせない
●私が若い頃、
そばの評論を読むと、
必ず、夏のそばの悪口が書かれていた。
いわく、
「梅雨を越えたそばは、
臭くて食べられない。」
「夏の暑い季節に、
そばを食べる奴の気が知れない。」
あれあれ、随分なことを言っている。
さらに、こんなことを言う人も。
「まずいそばを出すぐらいなら、
夏から新そばまでの間、
店を閉じてしまうのが、
真っ当なそば屋だ。」
すみません。
「かんだた」は真夏も営業している、
「真っ当でないそば屋」で。
●私の子供の頃、
そば屋では、夏になると、
麦切り(冷や麦)を出していたような記憶がある。
それと一緒にそばを食べると、
確かに、独特の蒸れた匂いを、
子供心に感じたものだ。
夏目漱石の「我輩は猫である」の中でも、
猫の主人が、
そばを取り寄せた友人の迷亭先生に、
こう言っている。
「君、この暑いのにそばは毒だぜ。」
夏の暑い季節は、
あまり、そばを食べるものでは、
なかったようだ。
●ところがどうだろう。
昔の人が言うように、
今でも夏のそばはまずいのだろうか。
少なくとも、
あの独特の蒸れた匂いのするそばを出すところは、
町中のそば屋であろうが、手打ちそば店であろうが、
駅のそばであろうが、観光地のそば屋であろうが、
コンビニのそばだろうが、
まず、見当たらない。
それどころか、熟成された分だけ、
味の濃いおいしさがあるような気がする。
新そばのころが、生意気な高校生とすれば、
夏のそばは、多少世の中を知り始めた、
野心的な好青年というところか。
いや、けっして、脂ぎったおじさんや、
人生を悟って枯れて来たおじいさんではない。
まだまだ、若さの香りのする年頃だ。
夏の季節だって、
しっかりと香りのするそばが食べられるのだ。
なのにどうして、昔の人は、
夏のそばを、あんなに嫌ったのだろう。
●先日、あるところでそばを食べて、
久しぶりに、あの蒸れたような匂いを嗅いだ。
それは、玄そばを水に浸け、芽を出したところを、
粉にしたそば。
それはそれで、なかなか味わいのあるものだった。
でも、あの、子供の頃に嗅いだ、
独特の匂いを思い出させてくれたのだ。
つまり、昔は、夏になると、
芽の出かかったそばを食べさせられていたようだ。
きっと、当時は、玄そばの保管状況が悪く、
梅雨の湿気でそばが芽を出そうと、
動き始めていたのだろう。
それで、風味が変わって、
敬遠されるようになったのかも知れない。
●さて今は、
玄そばの保存もよくなって、
特に、湿気に注意することによって、
夏でも、おいしいそばが食べられるようになった。
といっても、けっして、冷蔵庫のような、
低い温度で、保管するわけではないらしい。
ある程度の温度を、変化のないように保つのだそうだ。
そば粉屋さんの話では、
あまり、温度が低すぎても、そばが眠ってしまい、
かえって風味が落ちるそうだ。
つまり、玄そばが、
眠るでもなく、目覚めるでもなく、
うつらうつらとしている状態で、
保存しておくのがいいらしい。
まあ、業者さんによって、
さまざまな工夫があるようだ。
夏のそばがおいしくなったのは、
厨房の設備の変化も
多少はあるかも知れない。
昔は、今のように冷蔵庫や、
冷水、氷を気軽に使えなかったからね。
そうそう、それに、
大汗をかきながら、
しっかりとしたそばを打っている、
私達職人の力も、、、
ほんの少しは、、、、
ごく微量に、、、、
あっ、関係ないそうだ。
●今でも、「そば通」の方々の中には、
「夏のそばなんか、、、、」と言われる方も、
いらっしゃるようだ。
でも、さまざまな工夫により、
夏だって、おいしいそばが、
食べられるようになったのだ。
夏のそばが「まずい」とは言わせない。
この季節には、この季節なりの、
おいしさがあるのだ。
そういう思いで、
ともすれば気難しい、
夏のそばを、しっかりと打ちたいと思う。
でも、
夏から新そばまで、
店を畳んでしまうという、
「真っ当なそば屋」にも、
う〜ん、惹かれるなあ。
いや、いや、
けっして、サボりたいと言っている訳では、、、、
、、、ありません。
とかく、そば好きってやつは
●都会の真ん中の、
とあるビルの階段を下りたところにある、
しゃれた内装のそば店。
夜ともなると、
間接照明で浮き上がる店内にはジャズが流れ、
落ち着いた雰囲気の中で、
それなりの身なりの人たちが、
そばを楽しんでいる。
おりしも、その一角の、
一番奥まったテーブル席では、
背広姿の若い男Aと、
洗練されたスーツを着た女Bが、注文したそばが、
出てくるのを待っている。
この二人、
夫婦というほどの、あきらめの中に落ち着いた関係ではない。
婚約者という、幻想に包まれた仲でもない。
恋人という、非経済的な関係の、
なおかつ、その初心者同士のようだ。
●店員に案内されたときから、
どうも、女Bの機嫌は悪い。
「せっかくの私の誕生日なのに、
どうしてまたそば屋なの。
そのうえ、これから会社に戻って、
残業があるなんて。
ひどいわ〜。ひどいわ〜。」
ひたすら謝る男A。
「私だって、責任のある仕事をしているから、
仕事の大切なことは分かるけれど、
少しは私のことを考えてもらいたいわ。」
ひたすら謝る男A。
「この前だって、、、、
(あまり意味の無いことが多いので省略)
なのよ。」
ここで男Aの反撃。
「いや、だから、ここのそば屋を予約しておいんだ。
ここのそば屋は人気で、この時間には、
いつも満席なんだよ。
だから、仕事の合間でも、
君にここのそばを食べさせたいと思ってね。」
女B、冷たく男Aを見る。
「あなたが食べたかっただけでしょう。」
●ここで店員がそばのせいろを持って登場。
「お待たせしました。
本日のおそばは、長野県の信更(しんこう)の産です。」
女Bは言葉を止めない。
「だからね、少しは私の話も聞いて欲しいわ。
(グチ、グチ、グチ。)」
男A。
「とにかく、その話は、そばを食べてからにしよう。
そばは、茹でたてが一番おいしいのだから。」
女B(キッとした表情で)。
「私の話より、そばの方が大事なの?」
男A
「いや、まずはそばを食べてから。
その話は、また後から聞くよ。
ほら、見てごらん、信更のそばだって、
いい艶をしている。」
女B
「私の話は途中なのよ。
せめて、最後まで聞いてよ。」
男A(そばに箸をかけながら)
「うん、食べながら聞くから。
う〜ん、おいしそうだ。」
ズズーっ、ズズーぅ。
女B(一瞬、そのきれいな栗色の髪が逆立つ)。
「うも〜〜〜お。」
牛が鳴いたか、カエルがひっくり返ったか、
はたまた新興宗教の呪文か。
●女B、すっと席を立ち、
やたら黒光りする大きめのハンドバッグを手に、
足音も荒く立ち去る。
男A、慌てて、立ち上がって、
その後を追いかけようとするが、
左手に持ったそば猪口と、
右手の箸に気付く。
そして、女Bの背中が1.5秒ほどで見えなくなると、
おずおずと席に座り直した。
そのまま5秒ほど固まっていたが、
不意に、思い出したように、
残りのそばをたぐり始める。
ズズーっ、ズズーぅ。
店員が、何も知らずに
そば湯の入った湯桶をおいていく。
男A、食べ終わって、
その湯桶を持ち上げようとしたが、
ふっと気付いてそれをおろす。
周りを一瞬見回すと、
女Bが、手を付けずに立ち去ったせいろを、
空になった自分のと、そっと入れ替える。
そして、そのそばを、たぐる。
ズズーっ、ズズーぅ。
そうして、満足そうな笑みを、
口元から2センチほどのところに浮かべる
男Aなのであった。
その時店内には、
ルイ・アームストロングの
「この素晴らしき世界(What a Wonderful World)」が
流れていた。
ん〜〜ん、全くそば好きってやつはねえ。
「ざる」は海苔の載ったそば?
●昔、東京のそば屋で「もり」を頼んだら、
丸いざるせいろに、海苔がのった、
「ざる」が出た来た。
「おばちゃん、『もり』を頼んだんだよ。」
というと、
「ああ、ごめんごめん、
間違えちゃった。
海苔はサービスしとくからね。」
しめしめ、「もり」の料金で「ざる」が喰えるぞ。
わずか、数十円の違いだけれどね。
でも、
「もり」と「ざる」の違いは、海苔が載っているだけなの?
●東京周辺の、昔ながらのそば屋さんでは、
メニューに「もり」と「ざる」が並んでいる。
「もり」を頼むと、
四角いせいろに盛られたそばが、
平らに広げられて出てくる。
「ざる」を頼むと、
丸いせいろに盛られたそばのまん中に、
細切りにされた海苔が載ってでてくる。
わざわざ器まで替えているけれど、
多くのそば屋さんでは、
ただ、海苔が載っているだけの違いだ。
でも、でも、
さすが、老舗といわれるそば屋さんは違う。
「もり」と区別するために、
「ざる」では、ぐっとコクのある汁を使っているそうだ。
みりんを多く使った「御膳かえし」から、
「ざる」専用の汁を作っているのだ。
海苔も、すっと溶ける「花巻き」に使うのとは、
別のしっかりとしたものを使っている。
本来はそういうものだったらしいが、
それを受けついでいるのは、ごくわずかのお店。
ほとんどの店では、
ただ、「もり」に海苔をかけて、
「ざる」と呼んでいるようだ。
●そもそも、この「もり」という呼び方は、
どうして出来たのだろう。
江戸時代半ば、
片手で立って喰えるということで、
丼にそばを入れて汁をかけた、
「ぶっかけ」が流行った。
最初は冷たいそばだったが、
そのうちに、暖かいそばに使われるようになり、
いまでも「かけ」の名で残っているんだね。
その「ぶっかけ」に対して、
そば汁につけて食べるそばを「もり」と呼んだそうだ。
文字どおり「高く盛り上げるから、もり」なのだそうだ。
さて「ざる」のほうはというと、
やはり江戸時代中頃、
深川にあった「伊勢屋」で、
当時の主流であったせいろや皿に盛るのではなく、
編んだ竹のざるを使ってそばを出し、
「ざる」と呼んだのが始まりなのだそうだ。
もちろん海苔は載っていなかった。
値段は高かったが、
かなり質のよいそばを出したようだ。
つまり「ざる」は「もり」より、
高級なイメージがあったんだね。
今のように、
海苔をかけるスタイルが定着したのは、
明治になってからのことらしい。
ざるに盛ったから「ざる」ということではなく、
いわゆる種物の一つとして、
認められて来たのだね。
だから、海苔のかかったそばを、
「ざる」と呼ばず「海苔そば」としている店もある。
●さて、信州そばの本場、戸隠。
ここには多くのそば屋さんが並んでいる。
どのそば屋さんに行っても、
お品書きの最初に書かれているのが「ざるそば」。
あれ、「もり」はないのかな。
「すみません、
海苔のかかっていない『ざる』をください。」
東京辺りから来られるお客さまの中には、
こんなことを言う方もいらっしゃる。
ここ戸隠では、「ざる」といっても、
海苔はかかっていない。
名産のネマガリダケで作った、
丈夫なざるの上に、
ひとつかみづつ丸めた、
ぼっち盛りで出すのがここの流儀。
地元の人に言わせれば、
「ざるに盛ってあるから、『ざる』じゃないか。
何がおかしいんだ、えっ?」
とのこと。
「かんだた」のある、長野市街では、
東京風のそば屋と、戸隠風のそば屋が混在している。
だから、ただ、「ざる」と頼むと、
店によって、海苔が載ってきたり載らなかったりする。
紛らわしいなあ。
「かんだた」では、「もり」のことを、
ただ「手打ち」と呼んでいる。
時々、メニューも見ずに
「ざる、大もり」と頼む方がいるけれど、
「手打ち」こと、せいろそばをお出しする。
「もり」と「ざる」。
簡単な言葉なのに、
人によって、地域によって、
その響き具合が違うのだあ。
ああ、複雑な世の中よ。
でも、だから、楽しいのだよね。