2017年04月

「おかめ」の鼻には松茸

●秋の味覚といわれる、松茸。
みなさん、今年は何回松茸をお食べになりましたか。
私なんかもう、数十回も、、、夢の中で、、、、
ということで、実物は一度も。

採れたての松茸は、火にあぶって、
熱いところを手で裂いて食べる。
これが最高。
こりこりとした歯ごたえが、たまらない。

でも、昨年は松茸の採れ高日本一になった長野県でも、
ちょっと、手に入れるのは難しい高嶺の花。

さあ、そばにも、その松茸を使ったものがあるようで。

東京の老舗のそば屋さんのお品書きの中に、
「おかめ」というのがある。
これは、暖かいそばの上に、
様々な具をのせてある、
ちょっと、贅沢な気分のそばだ。

「おかめ」とは、
下ぶくれの女性の顔のこと。
「お多福(おたふく)」ともよばれ、
縁起がいいと言われている。
様々な具を使って、
この「おかめ」の愛嬌ある顔を、
そばの上に描き出そうというのが、
この種物の特徴だ。

●この「おかめ」というそばを考案したのは、
江戸は入谷にあった太田庵というそば屋だった。
時代は幕末というから、
ちょうど「篤姫」が大奥にいた頃なのかもしれない。

具の並べ方は、
まず、一番上に、娘の髪型になぞらえて、
真ん中を結んだリボン状の島田湯葉を置く。
そうして、かまぼこを二枚、
下ぶくれの頬に見えるようにハの字に置く。
そのかまぼこの間に、
薄切りにした松茸を置いて、鼻に見立てる。

これを基本にして、
卵焼きを口にしたり、
椎茸や、小松菜、海藻などを髪の飾りに使ったり、
などと、いろいろと工夫がされたみたいだ。

それを蓋付きのどんぶりに盛り付け、
蓋を開けたとたん、
愛嬌のある「おかめ」の顔が現れるという趣向。

これが「見立て」を楽しむ江戸っ子たちの間で大受け。
それまで、具をのせたそばとして流行っていた、
「しっぽく」の影を、
瞬く間に薄いものにしてしまったそうだ。

●しかしながらこの「おかめ」。
今では、「おかめ」の顔をかたどって出されるところは、
ほとんどなくなった。
「おかめ」といえば、かまぼこと椎茸と青菜などを、
熱いそばの上に載せたものとなった。

肴の少ないそば屋では、
この「おかめ」を頼んで、
上に乗った具で、酒をちびちびと飲み、
最後に伸びきったそばを食べる、
という飲んべえも居るようだ。

さて、今回の話の中心は、
この「おかめ」の顔の中心にあるべきもの、
鼻に見立てたという松茸なのだ。

●松茸を具に使うということで、この「おかめ」
当初は、秋の限定メニューだったらしい。
ところが、そのうちに、
塩漬けの松茸が出回り、
一年を通して、出されるメニューとなった。

でも、松茸をつかうなんて、
かなり高級なそばだったんじゃないの。

ところがところが、
昔は、松茸というのは、
高級どころか、ごく、ありふれたキノコだったらしい。
その辺りの山でも、普通に採れていたキノコだったようだ。

統計によると、
昭和の初め頃がピークで、
全国で、1万トンをこえる松茸が採れた年もあったらしい。

ちょっと待てよ、一万トンというと、
一本50グラムぐらいの松茸に換算すると、、
約2億本。
国民一人当たり、二本ぐらいの松茸が食べれたのだ。
つまり、それほど珍しいものでもなかったのだね。

「おかめ」を作った太田庵。
当時としては、ごく、身近なキノコを、
使っただけなのかもしれない。

●先日、ある温泉施設に行ったら、
「松茸そば 800円」とある。
頼んでみたら、普通のかけそばの上に、
よく、これだけ薄く切ったと感心するぐらいの、
しかも小さな松茸が三切れ載っている。

それでも、松茸の香りはするのだ。
その周辺は松茸の産地だけれども、
多分、そばの上に載っていたのは、
外国産に違いない。

それもそのはず、国内の松茸の消費量の、
97パーセントは、中国やカナダなどからの、
輸入品だそうだ。
今や、国産の松茸は、
年に50トンぐらいしか採れないという。

松茸の入った「おかめ」そばを、
食べてみたい気がするが、
値段を見るのが、ちと、怖い。
かといって、「おかめ」の鼻が無いのも、
寂しいものだ。

それならば、栽培されて、広く出回っているシメジを使って、
新しいメニューでも考えようか。

「ひょっとこ」なんてね。

やせた土地でできる大根が辛い

●松尾芭蕉といえば、
江戸時代の有名な人。
そう、俳句を作っていた人だ。

その人が、故郷の伊賀を出て、
信州に旅をした。
その紀行文が「更科紀行」。
今から300年以上も前の話。

旅は、かなり難儀であったようだ。
善光寺にも寄ったらしいが、
その頃は、今の本堂が建てられる、
ちょっと前のことだった。

さて、その中に、こんな句がある。

 ○身にしみて大根からし秋の風

はははっ、
芭蕉さん、ちょうど秋の終わり頃採れる、
長野の地大根の辛さに、
よっぽどまいったらしい。
なかなか、いい句がまとまらないと、
紀行の中でぼやいていながら、
しっかりと、この句を書き留めているのだから。

でも、この辛い大根、
どのようにして食べたのだろうか。
単なるご飯のおかずか。
今でもこの地に伝わる「おしぼりうどん」なのか。
はたまた、そばの薬味として食べたのだろうか。

芭蕉が信濃を旅したのは45歳の時。
東北を旅する「奥の細道」より、
すこし前のことだ。
その壮年期の芭蕉さんが口をつぼめた、
辛い大根って、どのようなもんだったのだろう。

●長野市から少し南に下った、
更級地方。
ここは、今でも、辛み大根の産地だ。

ここで採れる「ネズミ大根」と呼ばれる、
それこそ、ネズミの格好をしたちっぽけな大根を、
すりおろして、そのわずかな汁をぎゅっと絞る。
その、乳白色の汁で、そばやうどんを食べるのが、
昔からの流儀。

これが、ものすごく辛い。

私が長野に来たばかりの頃、
初めてこの汁で、うどんを食べた時、
しばし、固まってしまった。
たかが大根の辛さと、
たかをくくっていたからだ。

唐辛子のひりひりする辛さとは違う。
言わせてもらえば、
頭の皮が、ピンと引っ張られるような辛さなのだ。

おかげで、そばやうどんの味なんぞ、
分かったものではない。
でも、味噌をその汁に溶きながら、
つい、食べ進んでしまうのだ。

この大根、この地方の痩せた土地にしかできないらしい。
ほかの場所で育てても、この、
暴力的ともいえる辛みは、でないのだそうだ。

●信州だけでなく、
地方では、大根の絞り汁に、
味噌を溶いて、そばを食べるのが一般的だったという話。

これならば、わざわざ、出汁をとる手間もない。

雪深い北信濃では、
こんな風に昔から言われてきたという。

「一そば、二こたつ、三そべり」

農作業のできない、
雪に閉じ込められた冬は、
こたつに入り、
辛み大根の汁で味噌を溶いたつゆで、
新そばをすすり、うとうととしているのが、
一番の極楽だったそうだ。

こういう食べ方も、
見直されていいのかもしれない。
もちろん、こたつ付きでね。

●大根は、場所によって、
様々な種類が作られている。
今でこそ、青首大根しか見かけなくなったが、
本来は、その土地にあった大根が育てられていた。
その中に、更級のねずみ大根のような、
辛〜いものも、あるのだね。

そんな大根を使って有名なのは、
「越前おろしそば」。
ここで使われる大根も相当辛いらしい。
一度食べにいってみたいものだ。

「かんだた」の畑でも、
今年は信州地大根を育ててみた。
ねずみ大根ほどではないが、
ちょっとピリ辛。
私の細いそばには、
はたして、合うのだろうか。
ご希望の方はお試しを。

この辛い大根を食べれば、
芭蕉さんのような、
いい俳句がつくれるかなあ。

何気なくこなしている、ものの数え方

●さて、問題です。
 寿司屋で、
 「マグロ、1カン(貫)」
 と頼めば、何個のすしが出てくるのだろう。

 えっ最近は、「皿」でしか数えたことがないって?

 外国人が日本語を学ぶ時に苦労することの一つが、
 ものの数え方だという。

 日本語では、数字の後に、
 それにふさわしい言葉をつけて、
 その数を表す。

 例えば、子供三人、大人五人、
 船が一艘、飛行機一機、
 我が家に一台、となりに五台の自動車。
 犬はワンワン二頭いて、猫は三匹昼寝中。
 ウサギは五羽で跳ね回る。
 花は一輪、木は一本、
 バラを十本で一束にして、六ヶ所に送る。

 それぞれに、ものによって、
 また、その状況によって、
 私たちは、数え言葉を選んでいるのだ。

 紛らわしいことに、
 同じ犬にしても、
 抱きかかえられるような小さなものは、
 「匹」と呼び、
 大きい犬は「頭」と呼ぶ。

 海で泳いでいる魚は「匹」で数えるが、
 魚屋に並ぶと「尾」に変わる。
 イカやカニは「杯」と呼ぶ。

 などなど
 いろいろな決まりがあるのだねえ。

●さて、そば屋の世界では、
 どんな数え方をするのだろうか。
 
 お客さまが、
 「そばを一枚おくれ。」
 といえば、
 もりか、ざるか、冷たい盛ったそば。
 「そばを一杯。」
 といえば、かけか、丼に入ったそば、
 ということになる。
 
 だから、
 「寒かったから、二杯立て続くに食べた。」
 「盛りが少ないから、五枚ぐらいは食べられる。」
 と聞けば、何を食べるのか想像ができる。

 厨房では、
 それぞれの注文を「一丁」と呼ぶらしいが、
 私は、使わないなあ。

 なお、店によっては、
 「一人前」と頼むと、もりが二枚出てきて、
 「一枚」と頼むと、本当に一枚しか出てこない、
 複雑なところもある。

●栽培されたそばの実の「一粒」一粒は、
 収穫されて袋に詰められる。

 そうして「一俵」ごとに出荷される。
 ちなみに、そばの「一俵」は45キロ。
 米の60キロとは、ちょっと違うのだね。
 大麦は50キロ、炭は15キロで「一俵」と呼ぶそうだから、
 人のかつぎやすい大きさで、決まるのかもしれない。

 それが、製粉所に行って、
 粉にされて紙袋に入れられると、
 「一袋(たい)」と呼ばれる。
 そば粉の「一袋」は22キロ。
 どういうわけか、そのような決まりになっている。

 そうして、各店でそばにされて、
 一人前ずつに分けられると、
 「一玉(たま)」と呼ばれたりする。

 そばの麺は「一本」と数え、
 かんだたには、
 「そばは八本ずつ食べる」
 という決まりがある。
 (あまり気にしなくてもいいけれど。)

 乾麺の場合は、それを束ねて、
 「一把(わ)」とか「一束(たば)」とか呼ばれる。
 それが箱に入れば「一箱」、
 袋に入れれば「一袋(ふくろ)」。
 よく、土産物屋の店先で売られているやつだ。

●注文が
 「ビールを一本」といえば瓶ビール、
 「ビールを一杯」と言われれば生ビール。
 箸は「一膳」、床に落として、片方だけだと「一本」。
 おつまみは「一皿」「一品(しな)」。

 店で座る椅子は、
 脚が四本あっても「一脚(きゃく)」、
 テーブルは「一卓(たく)」。
 楊枝は「一本」、紙おしぼりは「一枚」、
 メニューブックは「一冊」または「一部」。

 座敷に上がって脱いだ靴は「一足」、
 上着をかけるハンガーは「一本」。
 壁にかかった絵は「一点」、
 掛け軸だったら「一幅(ふく)」、
 生け花が飾ってあれば「一鉢(はち)」

 帰りに頼むタクシーは「一台」、
 おっと、忘れちゃいけない、傘は「一本」。
 勘定書は「一枚」、
 ええっ、「一通」にするほどツケが溜まっている。
 ということで、「一組」のお客さまが、
 お帰りになった。

 なるほどなあ、
 知らず知らずのうちに、ずいぶんと、
 ものを数える言葉を使い分けているのだ。

●さて、おそばの前に、
 「ちょっと一杯」という方もいらっしゃる。

 この「一杯」というのは、
 不思議な一杯で、
 たとえ、おかわりを重ねようとも、
 いつまでも「一杯」なのだ。

 「そば前に酒を四杯飲んだ。」
 などというのは、
 警察に尋問された時か、
 馬鹿正直な人の日記に書かれるぐらいで、
 たいていは、
 「ちょっと一杯」で済まされる。

 いくら飲んでも「一杯」。
 これも、不思議なものの数え方だなあ。

 ちなみに、寿司屋で
 「マグロ、一貫(かん)」
 と頼むと、老舗の店では二個出てくる。
 ところが、スーパーなどで頼むと一個。
 まぎらわしいなあ。

 本来は、江戸時代の穴あき銭一貫分の大きさで、
 そのままでは、大きくて食べにくいので、
 二つに分けて出したのが、始まりだとか。
 つまり、握り鮨2個で一貫ということ。

 ところが、最近は、手巻き寿司の「巻」や、
 「個」がなまったものとする考えがあり、
 一個のすしをあらわす意味と、
 混同されてきているようだ。
 だから、確認した方が無難。

 ところで、そば屋で、
 「そば、一貫」と頼むと、
 生そばで3.75kg、
 かんだたの場合だと約30人分のそばが、
 どかんと出てくるのでご注意を!