本家、本流、看板の取り合い

本家、本流、看板の取り合い

●ひと昔、いや、ふた昔前の頃には、
どこの温泉地にいっても、
「温泉まんじゅう」が売られていた。
たいてい、何軒かのまんじゅう屋があって、
競い合っている。

果たして、その店が温泉まんじゅうを、
最初に造り始めたのかどうかは知らないが、
ある店は「元祖温泉まんじゅう」という看板を掲げている。
それに対抗する店は「本家温泉まんじゅう」とうたっている。
さらに、それに対抗して「総本家」を名乗る店があったりして。

どちらも、
自分のところが
「本筋の作り方を伝承している店ですよ」
と強調しているのだろう。

まあ、
食べる方としては、
「元祖」だろうが、「本家」だろうが、
「総本家」だろうが、
おいしければ、どちらでもいい気がする。

●さて、そば屋の世界でも、
「本家」の使い方を巡って、
裁判にもなった店名がある。

東京は麻布に、
三軒の老舗のそば屋があるが、
どこも、200年の伝統をうたい、
創業者は「布屋太兵衛(ぬのやたへえ)」だという。

三軒の名は
「永坂更級布屋太兵衛」
「麻布永坂更級本店」
「総本家更級堀井」。
どこも、自分の店こそが、
布屋太兵衛のそばの流れを汲むものと、
「本店」「本家」「本流」を名乗っているのだ。

これってどういうことだろう。

●寛政元年(1789年)に、
信州特産の信濃布という布を商っていた太兵衛が、
麻布に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を掲げた。
この時の「更科」は、
蕎麦の産地である信濃の「更級」の地名と、
そば屋の開業を勧めた領主の「保科」氏の名前から、
いただいたと言われている。

これを今も呼ばれる「更科そば」の起りという人も居るが、
じつは「さらしな」の名は、その前から使われていたようだ。

その布屋太兵衛の店は、色の白い御前蕎麦を看板商品として、
大いに流行ったらしい。
明治には「永坂更科」とよばれ、
独自の更科の製粉方法も生み出し、
何軒かの暖簾分けも行った。

ところが、昭和の初めの大恐慌、
加えて七代目当主の芸者遊びがだめ押しとなり、
昭和16年に廃業と相成った。
あらあら。

戦後になって、
布屋太兵衛の名を惜しんで、
相次いで、その名を使ったそば屋が開業し、
さらに、八代目となる子孫も本流を主張して麻布に店を開いた。
「永坂」と「布屋太兵衛」の名をめぐって、
商標権が争われたが、
最終的に今の形に落ち着いたようだ。

なるほどなるほど。
有名な名前だからこそ、
看板の取り合いになったわけだ。
そうして、三軒とも、
今でも老舗として、繁盛しているようだ。

●さて、昔はそば屋の系列に
「更科」「薮」「砂場」の三つがあると言われた。
それぞれにそばを作る流儀が微妙に違う。

でも「更科」では、明治になるまで暖簾分けをしなかったので、
その正式な系列店は、東京にある六軒ほどの店だけといわれている。
他にも「更科」を名乗る店があるが、
繁盛にあやかって使われているとの話。

暖簾分けという方法は、
今はやりのチェーン店のはしりでもある。
だけど昔は、その看板を分けてもらうには、
それ相応の、技術と資産と人格が必要とされ、
簡単には分けてもらえなかったのだね。

さて、「かんだた」も
「総本家」とつけないと間違えられる、、、
というぐらいの看板(ブランド)に、
なるのだろうか。