そば屋の世界

そば屋とわかる佇まいとは

●ごく、個人的な思い出を、
語らせていただきたい。
私が小学校低学年ぐらいの頃の話。
時代にすると、東京オリンピックの、
ほんの少し前のころ。

学校にいるときに、歯が痛み出してしまった。
帰っても痛くてしょうがない。
歯医者にいこうと思ったが、
今まで行っていた、近所の歯医者は、
先生が高齢のため、診察を止めてしまったのだ。

その歯医者は、家のすぐ裏にあり、
いわゆる、昔風の洋館といわれる建物だった。
重苦しい石の塀に囲まれ、
入り口には、ヤツデが生い茂っていた。
建物の入り口の扉は、
真ちゅうの大きな取っ手が付いていて、
曇りガラスに金文字で大きく、
「○○歯科醫院」と書いてあった。
横には「醫学博士××××」という、
黒地に金文字の額まで飾られていた。

中に入ると靴を脱ぎ、すぐ右側の階段を上る。
二階が、当時としては洒落た出窓のある診療室で、
恐ろしく大きな音のするドリルで、
歯を削られたものだった。

私は、小さい頃から、この歯医者に厄介になっていた。
そこが、診察をしなくなってしまったのだ。
でも、歯が痛くて仕方が無い。
兄が、商店街の向こうに、歯医者があるというので、
初めてのところだが、一人で行ってみることにした。

●教えられた通りを行くと、
なるほど、歯医者らしい建物があった。
石の塀で囲まれ、どっしりとした洋館風。
ちょっと間口が狭いけれど、ヤツデも生い茂っている。
扉のガラスには「○○醫院」と金文字で書かれている。
でも、その横に書かれていた文字は、
ちょっと難しくて読めなかった。

とにかく歯が痛いのだ。
知らないお医者さんでもいいから、診てもらおう。

中に入ると、すぐ待合室で、
何人かの人が待っていた。
靴を脱いで、座って待っていると、
やがて、看護婦さんに呼ばれる。
診察室に入ると、普通の丸いいすに坐らせられる。

あれ、脇に流しの付いた、
大きないすじゃないの。
あの、無気味なドリルの姿が無い。

女性のお医者さんが私に聞く。
「ぼく、どうしたの。」
「歯が痛いのです。」
そうしたら、女医さんは、不思議そうな顔をして聞く。
「どうして、歯医者さんに行かないの。」

その時になって、やっと、周りの状況に気付いた私。
「えっ、ここは、歯医者さんじゃないの?」

そのとたんに起こった周囲の大爆笑。
先生なんか、いすから転げ落ちんばかりだし、
看護婦さんも、他の患者さんも腹をかかえている。
保険証を返してくれた、受付のおばさんも大笑い。
わたしは、歯の痛みをこらえながら、
身を隠す穴も探せなかった。トホホ。

歯医者は、その医院の手前にあった。
きれいな、クリーム色の壁に、青い扉の建物だった。
上の方に歯科の看板が付いていたのだが、
小さな子供には、目に入らなかったようだ。
というか、その建物のイメージが、
その時の私には、とても歯医者とは感じられなかったのだ。

大笑いされて、初めて「耳鼻咽喉科」の意味を知った。
以降、今の歳になるまで、この科の医院は、
避けて通っている。

●人から聞いた話。
その人の近所に新しい店が出来たそうだ。
オシャレな外観で、何やら横文字で書いてある。
中で、お茶を飲んでいる人の姿が見えるので、
てっきり喫茶店だと思っていた。

あるとき、ちょっと喉が渇いたので、
その店にでも寄ってみようかと思って良く見たら、
そこは、喫茶店、、、、、ではなく、

美容院だった、、、そうだ。

人の先入観というものは恐ろしい。
いくら、看板に、「○○屋」と書いてあっても、
パッと見た目で、どんな店なのか思い込んでしまうのだ。
食べ物屋であれば、
店の外見で、どんなものを扱っている店なのか、
高い店なのか、大衆的な店なのかを読み取ってしまうのだ。

●そば屋も、
パッと見たとたんに、
そば屋と分かるような店構えをしているだろうか。
遠くから見ても、
あっ、あれはそば屋だと思われるような店構えが
できるといいのだろうなあ。
何がそば屋らしいたたずまいなのか、
そう言われると、ちょっと困るけれど。

そば屋らしいといえば、
大きめの暖簾、
屋根の張り出した和風の建物、
灯籠形の招き看板、
棚には使えそうもない曲がりくねった板(銘板というらしい)に書かれた達筆の店名。
などなど。
手打ちの店であれば、打ち場が見えているといいのかもしれない。

ところが、この頃は、まったくそば屋さんらしくない雰囲気の、
そば屋さんもあるようだ。
外見はまるでオシャレなダイニング、そこに「そば」の看板を出すところもあるそうだ。
ふうん、そば屋らしさって、何なのだろう。
それぞれの店で、それなりの工夫をしているのだろうねえ。

●人は、それぞれに、
思い込みというものがある。
一度そう思い込むと、
なかなか、その思いから抜け出さないのだ。

「手打ちそば屋かんだた」に、たまに、
路地の入り口にある韓国料理店と間違えて入ってきて、
「韓国ラーメンを下さい。」と言う人がいたとしても、
決して笑ってはいけない。
雰囲気で分かりそうなものだろうなんて言ってもいけない。
思い込みと言うのは、強いものなのだ。

少なくとも、あの女医さんのように、
いすから転げんばかりに、
笑いこけてはいけないのだ。