そばコラム

「ノビる」そばと「ノビない」体力

 ●食べ物とは関連のない勤めをしていた若い頃、
 仕事場で、よく、そばの出前を頼んだ。
 まとまった食事時間の取れない不規則な仕事。
 そばならば、さっと、食べられて、
 お腹に重たくなく、
 すぐに動けるので、重宝していた。

 しばらくしたら、近所に別のそば屋ができた。
 食べに行ってみると、
 こちらの方がはるかにおいしい。
 出前もしてくれるというので頼んでみた。
 そうして食べようと思って、
 箸でつまむと、
 あらら、そば全体が持ち上がってしまう。
 そばがみんな、くっついているのだ。

 なんとかほぐして食べるけれど、
 すっかり、歯ごたえがなくなっている。
 完全にノビきっているのだ。

 うんちく好きの上司のいうことには、
 「いいそばほど、ノビやすい。」
 のだそうだ。

 結局、出前には元のそば屋、
 食べに行くのなら、新しいそば屋、
 ということで、役割分担が決まった。

●そばは、時間が経つと、
 すぐにノビてしまう。

 漢字で書けば「伸びる」とも、
 「延びる」とも使うそうだ。

 別に、物差しで測って、
 長さが変わるわけではない。
 しゃきっとした、歯切れのいい、
 そば独特の食感が失われることだ。

 茹で上がったそばは、
 洗われて、せいろなどに盛って、
 すっと、水が引いた瞬間が、
 一番おいしいといわれている。

 だから、そば屋で酒なんぞ飲んでぐずぐずしていると、
 「ほらほら、そばがノビてしまいますよ。」
 と、女将さんに促されたりする。

 老舗のそば屋さんの中には、
 「大盛りはありません。
  盛りの量が多いと、
  食べているうちにそばがノビてしまいますから。」
 と、言われるところもある。
 
 大人数の宴会などで、
 「そばは無礼講」などと呼ばれるのは、
 みんなに行き渡るまで待っていたら、
 そばがノビてしまうから。
 たとえ、下っ端だろうが、小間使いだろうが、
 茹でて出された順に食べるのが、
 あたりきしゃりき!
 部長、専務、社長、大臣、ヒラ、
 この際、肩書きは関係ないのだ。

●さて、そばがノビているって、
 どんな状態なのだろう。

 はっきり分かるのは、
 盛られたそばがくっついてしまうこと。
 そうして、ぐにゃっという食感になってしまうこと。

 なんで、こうなるの?

 何でも、そば粉には、
 水溶性のタンパク質が多く含まれ、
 それが、茹でられた後に溶け出して、
 、、、うんぬん。

 つまり、そば粉の割合の多いそばほど、
 ゆでた後にノビやすいようだ。

 上司が言っていた、
 「いいそばほど、ノビやすい。」
 というのは確かなことのようだ。
 だから、そば粉の割合の多かった新しいそば屋は、
 出前には向かなかったのだね。


●でも、どこでも、好きな時に、
 そばを食べたい、
 というのも、一つのニーズ。
 ましてや、食べ物屋の少なかった昔は、
 そば屋の出前は重宝した。

 ある時、そば屋の厨房を覗いたら、
 出前用のそばを盛る前に、
 懸命にうちわで扇いでいた。

 水気を飛ばすことによって、
 少しでもノビるのを、
 延ばそうとしていたのだねえ。

 お客さまの話では、
 あるコンビニで売られているざるそばには、
 「ほぐし水」というのが付いているそうだ。

 プラスチックのパックに盛られたそばは、
 全く、ノビた状態で、固まっているけれど、
 その水をかけると、あら不思議、
 パッと、そばがほぐれて、
 おいしく食べられるそうだ。


●そばはノビる前に食べるに限る。
 だから、そばが来たら、
 一気に、たぐり込むように食べるのが、
 そば通の常識、、、、
 と思いきや、
 中には、ノビたほうが好きだという方もいらっしゃる。

 そばをお出しても、しばらくそのままにして、
 おかれるのだ。
 その方のおっしゃるには、
 店によってノビ方が違うので、
 そこを見極めるのが難しいとか。

 また、最近は、
 一枚のそばを、
 20分ぐらいかけて、
 すこしづつ召し上がる方もいらっしゃる。
 まるで、そばのノビていくのを、楽しんでおられるようだ。

 それでも、
 ノビのない、
 しゃきっとしたそばをお出しするのが、
 そば屋のつとめ。
 タイミング良く茹で、よく洗い、
 丁寧に水を切る。
 そうして、どんなに忙しくとも、
 ノビない体力をつけておくのも、
 そば屋の仕事のうち、、、なんだなあ。