そばコラム

花魁(おいらん)の好んだ辛いそば汁

●紀伊国屋文左衛門 といえば、
江戸時代中頃に活躍した材木商人。
大もうけをして、派手に遊んだという話が伝えられている。
当時遊ぶといえば、江戸の吉原。
ここにはきれいな女性が揃い、
おいしい食べ物が、豊富にあったそうだ。

文左衛門は、そのころ二千人の遊女がいたといわれる、
この吉原の門を閉めさせ、
つまり、貸し切りにして、小判をばらまき、
豪華に遊んだので「お大尽」として、
江戸中の人々の評判となったそうだ。

さて、この紀伊国屋文左衛門 と張り合ったのが、
同じく材木商の、奈良茂こと奈良屋茂左衛門。
この人も、ずいぶんと派手な遊びをしたという。

こんな話が残っている。
ある時、奈良茂は、お気に入りの花魁(おいらん)に、
そばを二枚届けさせた。
一緒にいた友人が、
「おいおい、二枚だけということはないだろう。
 よし、俺が、この郭中の人に、そばを振るまってやるよ。」
そう言って、そば屋にそばを注文した。

ところが、そば屋は売り切れだという。
そこで、他のそば屋をあたって見るが、
どこも、そばはもう無いという。

実は奈良茂、
周りのそば屋のそばをすべて買い取り、
たった二枚だけを、花魁に届けたのだ。
つまり、
その日、江戸でそばを食べられたのは、
その花魁だけ、、、、
、、ということをしたんだね。

●吉原は、江戸にそばを広まらせた、
大切な場所の一つだったそうだ。
江戸で、はじめて「そば屋」が出来たのも、
この吉原なのだそうだ。
値段はべらぼうに高かったが、
新しいもの好きの人々に受けたらしい。

その後、
花魁の出世の行事などに、
そばを振る舞う習慣ができたりして、
江戸っ子の中にそばがしみ込んでいったわけだ。

さて、
吉原の三浦屋というところに、
几帳(きちょう)という花魁がいたそうだ。
この花魁、めっぽうそば好き。
そうして、この几帳のおかげで、
江戸のそば汁は辛くなったとか。

●この花魁、なかなか我がまま、
いや侠気のあった人だったそうだ。
店のものが、
「花魁、永田町の野田様のお座敷でお呼びです。」
と迎えに来ても、
「あの人は、イヤでありんす。」
と、自分の目に叶う客でないと、
断ってしまったそうだ。

それでも、気に入った客には、
いろいろと世話を焼くので、とても人気が高かったとか。
たいへんなそば好きで、ちょっと間があると、
すぐ、そばを手繰っていたという。
客がいろいろと贈り物をしようとすると、
着物以外はそばを贈ってくれと頼んだそうだ。

そうして、贈られたそばは、
店の他の女性達や、
働く下女下男にまで振る舞ったそうだ。
時には、身銭を払って、
同じように、そばを振る舞うこともあったとか。

年季明けの几帳の支払いは、
半分はそば屋へのものだったそうだ。
こういう気っぷの良さは、
「はり」があるといって、
「いき」とともに江戸っ子に好まれたとか。

●さて、この花魁の几帳。
そばを食べる時には、
辛い汁を好んだのだそうだ。

折しも、関東で作られるようになった醤油が、
江戸に広く出回るようになった時代らしい。
それまでの江戸では、「下りもの」と呼ばれていた、
関西から運ばれてくる醤油が上物とされていたという。

ところが几帳は関西の醤油で作った汁を好まなかった。
そして、
「そばを食べるには、辛い汁に限る。」
といって、関東の醤油で作った江戸汁を使った。
なにしろ、名の通った花魁が言うことなので、
それが江戸っ子の中にも広まっていったようだ。

かくして、そのころの江戸では、
辛い汁のことを、几帳の名を取って「几帳汁」とよんだそうだ。

●この人気の花魁を身請けしたのは、
最初に紹介した紀伊国屋文左衛門との話。

文左衛門は後年になって事業に失敗し、
最後は質素な暮らしの中にいたというので、
几帳ははたして、好きなそばを食べていられたのかは、
わからないのだ。

今でも東京の老舗のそば屋の汁は、
かなり辛めだ。
そんな辛い汁に当たった時には、
かって「はり」のある花魁がいたことを、
思い出してみたりしてみてはいかが。