かんだた瓦版

注文伝票が読めない。

 「初めての方には、慣れるまで時間がかかるかもしれません。」

 メガネ屋さんはそう言って、時間をかけてメガネを調整してくれました。そうです。私にとっては初めての「遠近両用メガネ」なのです。

 さっそくかけて見ると、なるほど、遠くまでよく見えます。でも、それは真っすぐ前を見ている時だけ。ちょっと横を覗くと、もうぼんやりとしています。

 ええと、近くを見る時は、レンズの下の方を使って、、、つまり、あごを突き出すようにしてみればいいのですね。

 なにか、そういう自分の姿を想像しただけで、年寄り臭く見えそうです。 

 実は、店の冷蔵庫に張られた注文伝票の文字が、読みづらくなっていたのです。

 私はもともと左の眼があまり良く見えません。いわゆる先天性の弱視なのです。だから、いつも、よく見える、もう一方の眼だけで見ているのです。けれども、その右目も乱視が進んで、ぼやけてきたのですね。

 おまけに、十年ぐらい前から、手元がよく見えなくなっています。ほらほら、老眼ですね。

 そこで、本や新聞を読んだりする時のために、老眼鏡を用意していました。なるほど、手元がよく見えます。

 そして、若い頃から、長い時間の車の運転をする時や、映画を見る時にだけ、遠くを見る乱視用のメガネをかけていました。でも、普段は、ほとんどメガネを使わずに過ごしてきたのです。

 店の仕事中も、メガネなしで、困ることはありませんでした。

 それなのに、ほんの、二メートル先に張られた伝票の文字が、この頃読めなくなってきたのです。

 そこで、遠くを見るためのメガネを仕事中にかけることにしました。これなら伝票がはっきり読めます。ところがところが、今度は、手元がよく見えません。包丁で鴨肉を切るときなんぞ、つい慎重になって時間がかかったりします。

 そのような状況では、これはいよいよ、遠近両用のメガネを作らなければいけないかな、と思い始めたのです。

 そんなメガネは年寄り臭いと思ったけれど、私ももう、今年で五十歳代最後の年となります。しっかり老人になりつつあるのですね。

 新しいメガネは、なるほど便利です。伝票の文字も読めるし、包丁の刃も見えます。でも、焦点を合わせるのに、首を縦に動かしたり、横に振ったりしなければなりませんね。

 あと、そばを茹でる時に、釜の湯気に当たってしまうと、あれあれ、曇って何も見えなくなります。

 それでも使っていれば、メガネ屋さんの言ったように、慣れてくるのかもしれませんね。

 去年、腰痛で病院に行った時には、まだ若い医者にこう言われました。もう若くないのだから、二十代や三十代のつもりで身体を使ってはだめですよ、と。ならば、歳をとれば、じっとしていろということでしょうか。

 いや、確かに、歳とともに身体は衰えていきます。でも、その衰えを、素直に受け入れて、様々な方法で補いながら、物事に取り組んでいくことはできるはずです。

 ほら、老眼には、メガネをかければいいように、腰痛にはストレッチと腹筋運動が効くようにね。

 私もまだまだ十年、といわず、ずっとそば打ちを続けていくつもりです。

 それには、自分の身体の衰えも、率直に認めて、それと付き合っていかなければならないのでしょうねえ。

 話は変わりますが、中国では老眼のことを「花眼」と呼ぶのだそうです。輪郭がはっきりしなくなるので、かえって花が美しく見えるのだそうです。同じように女性も美しく見えるとか。

 世の中は、けっして、はっきり、くっきりと見えることだけが、すべてではないではないようです。時にはメガネを外して、周りを見回してみることも、いいことかもしれません。

 

                かんだた店主  中村和三