2015年12月

子供の頃の粋なそば屋

 長野は、季節の移り変わりがはっきりとしていて、その時々の景色の美しい街だなあと、つくづく思います。天気がよければ、遠く北アルプスが望まれ、そこから流れる河が、街の中を横切っていきます。そうでなくとも、緑の多い山々に囲まれ、野菜や果物も、新鮮で美味しいものが手に入りますね。

 

 さて、私はこうして長野の町の片隅でそば屋をやらせて頂いておりますが、実は生まれは東京なのです。目黒区の学芸大学という駅の近くでした。

 目黒区というと、柿の木坂や自由が丘などの高級住宅街もありますが、私の育ったところは、その中でも、じつに下町の雰囲気の強い地域でした。私の父母がそうであったように、戦後になって、何らかの理由で下町から移り住んだ人が多かったのですね。

 子供の頃の街の風景は、今とはまったく違うものでした。

 そう、まさに映画「三丁目の夕日」の中に出てくるような風景です。軒の低い家々が連なり、駅前には、バラックづくりの市場が、ぎっしりと建てこんでいて、いろいろなものを売っていました。近所の人は皆顔見知りで、酒屋も荒物屋も米屋も、子供の使いでも、かけで売ってくれました。豆腐なんぞは、よく、鍋を持って買いに行かされたものです。

 

 駅前には一軒のそば屋がありました。地元の人が「そば御殿」と呼んでいたぐらいで、御影石やタイルを使った、二階建ての外観は、当時としては、ずいぶんと豪華に見えたものです。ほかに食堂のようなものが無かったせいもあり、いつも人で混んでいて、二間ある玄関の引き戸は、ひっきりなしに開いたり閉じたりしていました。

 入るとすぐに、店の中に張り出すような形で帳場があり、ここでうどんやそばのゆで麺を売っていました。私も何度も行かせられましたが、いつも行列ができて、買うのに時間がかかりました。帳場のカウンターが高くて、背の小さい私は、見上げるようにして「うどん玉六つ」などと、頼んだのを覚えています。

 帳場を回りこむと、高い天井のテーブル席がありました。木の板とすりガラスの窓に囲まれた、重厚な空間で、たしか、透かし金具の入ったぼんぼり型の照明が下がっていたと思います。

 

 小学生の頃、近くの長屋に住む友達の家へ、よく遊びに行きました。その家の親父さんはブリキ職人で、三時を過ぎると、仕事から帰ってきます。すると、すぐに銭湯に行き、戻ると酒を飲み始めます。

 なんでも、職人っていうものは、「暗くなるまで働いちゃいけねえ」そうで、そんなに働くのは、仕事がヘタなのだとか。顔は怖そうでも、子供には優しい人でした。そして時々、そのそば屋に連れてってくれたのです。

 親父さんはそば一枚と酒、子供二人に一枚のそばをおごってくれます。その親父さん、徳利からコップに移した酒を、まるで水を飲むように一気に飲んで、嬉しそうにそばを手繰ります。そして、食べ終わると、すっと席を立とうとします。まだ食べ終わらない子どもたちは、慌ててそばを飲み込むのです。

 ある時のこと、そうして、そば屋に連れてきてもらった時、いつもの様に、チュルチュルとそばを手繰っていたら、後ろから頭を叩かれました。

 「江戸っ子が、そんなそばの喰い方をするんじゃねえ。」

 振り向いてみると、私の知らないおじさんでした。もっとも、むこうのほうでは、こっちが誰々のガキだと、知っていたのかもしれません。それだけ言うと、すたすたと向こうへ行ってしまいます。

 「ほらほら、のんびり食っているからだ。」と、友達の親父さんが、笑いながらいいました。

 その親父さんに、そのそば屋に連れて行ってもらったのは、そんなに多い回数ではなかったけれど、子供ながらに、そばの食べ方を教わりました。

 汁には少しだけ付ける、口の中でくちゃくちゃ噛まない、そば湯はかき回さない、長居をしない、そば屋に爪楊枝は置いていない、などなどです。そして、最後には「粋(いき)に食うんだよ。」と言うんです。

 子供には「粋」なんて言葉はわかりません。でも、かっこ良く食べるんだな、ということはわかりました。

 そのそば屋は、平成に入ってから、ビルに建て替えられたそうです。

 

 今は江戸っ子の「粋」とか「張り」とかいう言葉は、ほとんど使われ無くなりましたね。そば屋の価値観も変わりました。

 でも、お客様には、やっぱり、かっこ良く、そばを食べていただきたい。そのためには、「粋」な店にするように、努力しないといけないなあ、と思っています。

 

             

     

 

             かんだた店主  中村和三