役に立たないそば屋の話

殿様の召し上がる御前そば。(役に立たないそば屋の話7)

 「そば屋の出前」といえば、
 催促されたことに、
 その場で適当な言い訳をすることの
 代名詞となってしまった。

 そば屋に出前の注文を入れたのに、
 なかなか来ない。
 催促の電話を入れると、
 「今、でました。」と返事をされる。
 実際は、忙しくて、まだ作っていなかったりするのにね。

 「そば屋の出前」状態で、
 言い訳をしいしい、仕事をこなしている、
 忙しい方もいらっしゃることだろう。
 お得意さまからは、
 「そば屋の出前じゃないんだぞ。」
 と釘を刺されたりして。

 似たような言葉で、
 「紺屋のあさって、そば屋のただ今」
 という言葉がある。

 紺屋の仕事というのは、天候に左右されるので、
 つい、遅れがちになる。
 だから、「あさって」「あさって」といって、
 仕事を先送りするのだそうだ。
 つまり、当てにならないことの、たとえなのだ。

 どうも、そば屋はよくいわれていない。

 さて、時代は江戸時代。
 お殿さまが、そばの出前を頼んだら、
 どんなことになるのだろうか。

 地方から参勤交代で、江戸屋敷に落ち着いた、あるお殿さま、
 家来を呼んでこう言う。

 「これ、三太夫。江戸の町では、『そば』というものが流行っているそうだ。
  余も、所望したいぞよ。」
 「恐れ入ります。しかし、上様。
 『そば』というものは、町民平民の食べ物。
  とても上様が、お口にされるようなものではございません。」

 しかし、このお殿さま、なかなか強情。
 一度言い出したら引かないところがある。

 かくして三太夫、配下のものに言い付けて、
 屋敷近くのそば屋に、
 そばを出前させるように手配したのだ。

 さて、言い付かった家来のもの、
 くだんのそば屋に出向き、用向きを伝える。

 「よいか、上様が召し上がるそばだぞ。
 特別に計らうように。」

 ははっ、、、とひれ伏したそば屋の主人。
 「お任せ下さい。
  あちらの殿様も、こちらの殿様も、
  私どものそばを召し上がっております。」
 と、したたかな様子。

 さて、家来の見張る中、
 職人たちは身を浄め、
 そばを茹で、取りザルにあける。
 団扇であおぎ、時間が経っても、そばがばらけるように、
 そばの水分をしっかり飛ばす。

 盛るのは金蒔絵(まきえ)の、蓋付きの重箱。
 ここにスダレを置いて、そばを盛る。
 小しきりの中に、唐津の徳利にそば汁を入れ、
 伊万里のそば猪口を置く。

 蓋をして、紫の二越ちりめんの風呂敷で包み、
 いざ、お屋敷に。

 家来を先頭に、そば屋の小僧が出前のそばを持っていく。
 お殿さまの食べるもの故、ぶらぶらとぶら下げる訳にはいかない。
 肩に担ぐわけにもいかない。
 しっかりと胸の前に押し抱いていくのだ。

 さて、裏門から殿様の江戸屋敷に入ったそばは、
 台所に回される。
 ここで、そば屋の小僧は返され、
 そばは、台所を管理する侍に引き継がれる。

 まずは、ここで、お毒味役の出番。
 映画「武士の一分」で木村拓哉が演じた役だね。
 ひと口食べて、異常がなければOK。

 係の侍が、入り組んだ長い廊下を、
 頭の前に、そばの入った重箱を戴(いただ)き進む。
 ここで、転(こ)けようものなら、切腹間違いなし。
 「あっ、落としちゃった、わっははははは。」
 で済まされる、現代とは大違い。

 かくして、そばは、殿様の御前に運ばれ、
 めでたくお腹に収まることが出来るわけだ。

 茹でられてから、もう、小一時間も経っているよ。

 「これ、三太夫、なかなか美味である。
  おかわりを持て。」
 「ははぁ。しかしながら、松茸のご飯もあります。
  雲丹(うに)をたっぷりと載せたご飯もございます。
  そちらをお召し上がりになったほうが、よろしいのでは。」

 「いや、松茸も雲丹も食い飽きた。(一度言ってみたい)
  このそばを、もう一つ持て。」

 ということで、再び家来が、そのそば屋に出向いた、、、
 
 ということが、あったかどうか、
 まったく、確かなことではない。

 お屋敷町に店を構えたそば屋は、
 それなりに、出前の方法を考えたようだ。

 お屋敷に出前するには、どうしても時間がかかる。
 そこで伸びないようなそばを使うことにした。

 そばの、中心の部分を使った粉だ。
 今で言う更級粉。
 これは、普通のそばに比べてでんぷん質が多く、
 よく水を切れば伸びにくい。
 お殿さまも召し上がったので、
 「御前そば」と呼ばれ、重宝された。
 当時としては、細心の製粉技術が必要なことだったろう。

 そして、器や、しつらいにも、
 気を利かせたのだね。

 昔から、そば屋の出前というのも、
 いろいろな工夫があったもの。

 今では、出前をする店も少なくなったが、
 都会では、逆に出前専門のそば屋さんがあるという。

 「そば屋の出前」というと、どうも響きが悪い。
 かっこ良く「デリバリー」とか、「ケータリング」なんて、
 名をつけたらどうだろうか。
 ちなみにピザ屋さんは「出前」とは呼ばない。

 おいしいそばは、やはり店で召し上がって頂きたい。
 茹でたてのそばが、一番おいしいと思う。
 でもね、昔からある出前、
 これも捨てがたいところがある。
 あえて伸びていることを承知で手繰るそば、
 う〜ん、何か人生の深みに立っているような気がする。
 

石臼ゴロゴロ。(役に立たないそば屋の話6)

「そばほど贅沢な食べ物はないですよ。」
そばの製粉の機械を作っている方が、こうおっしゃっている。
「これだけ食べるのに、手がかかる食べ物は、
 まず、他にはないでしょう。」
 
そう、そば畑から、そば屋のせいろに盛られるまで、
そばは、実にたくさんの手数を掛けられているのだ。

そば屋だって、粉から麺にするまで、
ずいぶんと時間と手間がかかる。
特に、私のような手打ちの場合は、
なおさら体を働かせなければならない。

だけど本当は、その前の仕事、
そばの実から粉にするまでのほうが、
はるかに手間と時間がかかっているのだ。

確かに、製粉屋さんに行けば、
いろいろな機械がゴトゴトブーンと動いている。
そばの実を磨く機械や、石を取り除く装置、
実の大きさを揃える、皮をむく、
そばの実を選別する、実を割る、
臼(うす)で挽く、ふるいに掛ける、
それを混合する、袋に入れる、
実に、たくさんの種類の機械が働いているのだ。

これらの機械を作る方は、
さぞかし、苦労と工夫を重ねてこられたのだろう。
だから、最初の言葉のようになったのだね。

さて、今では、臼(うす)で粉を挽く、
そして、その前後の細かい作業を、
すべて、電動式の機械がやってくれている。

でも、そんな機械のなかった時代には、
一体どうしていたのだろう?

人の手で臼を回していたのだね。
(まあ中には、脚で回す人も居たかもしれないが。)

臼は大抵、直径30センチから35センチぐらいの丸い石でできている。
そばをよく挽くことができるように、
かなりの重さがある。
それを、外側に付いている穴に、
木の股を使った棒でひっかけて、
ぐるぐると回すのだ。

これが、ちょっとコツがあり、
その棒を手の中で滑らせるようにして回すのだ。
ぎゅっと握って、力任せに回そうとすると、
棒は穴から外れてしまう。

上の穴から、少しずつ、
皮を剥いたそばの実を入れながら、
臼をゴロゴロと回し続けなければならない。
そうして、少しずつ、
少しずつ、、、、
本当に、情けないぐらい少しずつ、
そばの実が粉になって、上下の石の隙間から落ちてくるのだ。

ここ長野あたりでは、
昭和のはじめぐらいまで、
石臼は、嫁入り道具の一つだったという話を聞いたことがある。

信州は、女性が家庭でそば打ちをしていた。
日々の食事だけでなく、
婚礼などのハレの日にもそばが振る舞われ、
その家の主婦が、そばを打つのが当たり前になっていたようだ。

そばを打つには、まず、粉を挽かなければならない。
主婦は長い時間床に座り込んで、
ゴロゴロと、重い石臼を廻して、
家族の分のそば粉を挽いたのだ。

「そばを打つ日は、ばあさんが縁側に座って、
 半日かけて石臼を廻していたっけなあ。」
などと、年配の方が、思い出話をしたりする。
なかには、
「学校から帰ると、粉挽きをやらされて、
 嫌で嫌でたまらなかった。」
などという方も居る。

粉を挽くのは、
女性と子供の役割だったのだね。

その家に娘が居ると、
その娘は、夜に次の日のそば粉を挽く習慣があったとか。
娘さんも大変だったね。

ところが、娘が夜に、
ため息をつきながら(本当にため息をついたかどうか知らないが)、
石臼を廻しているという話を聞くと、
近所の若い男たちが黙っていない。
機会をうかがっては、
石臼を廻すのを手伝うというのを口実に、
娘のもとに通う男も居たとか。

いつもは退屈な粉挽き仕事も、
二人で、あるいはもっと大勢で、
交代に臼を廻せば、
楽しい時間となったことだろう。

さて、そばの大消費地であった江戸時代の江戸では、
どのように、そばを粉にしていたのだろう。

ここでは分業がかなり進んでいて、
水車を使って、そばの皮を取る、
専門の業者が居たという。

その業者が、江戸中のそば屋に、
丸抜き、つまり、皮をむいたそばの実を届けるのだ。
当時のそば屋には「臼場」という場所があり、
ここで、専門の職人が、
終日、臼を廻して、そば粉を作ったという。

これも大変な仕事だっただろうなあ。

でも、動力の普及により、
そういう仕事も無くなっていったのだ。

店で若い人に、石臼で挽いたそば粉を使っていると言ったら、
こう言われてしまった。

「臼って、正月のお餅をつく時に使うものでしょう。
 へえ〜、それが石でできているんだ。」

あれっ、何か話が噛み合ないなあ。

もっとも、今の若い方は、
ぐるぐると廻る石臼なんぞ、
自分で廻したことはないし、
見たこともないのかもしれない。

そばの実からそば粉を作ることが、
どんなに大変なことなのかを知っていただくためにも、
どこかで、石臼をゴロゴロと廻すことが、
体験できる場所があるといいな、、、、

、、などと思ったりしている。

そばののし板は、何年かかって作られる。(役に立たないそば屋の話5)

 強烈だった暑さも、
 やっと緩んできたかと感じられる季節。

 「かんだた」のある長野市の中心部、
 善光寺に続く表参道の街路樹も、
 濃い緑の中に、少し焼けた葉が混ざっていたりする。
 その緑のざわめきの向こうに、
 仁王門の屋根が踊っているのが見通せる。

 このあたりの街路樹は、
 ちょっと珍しい桂(かつら)の木。
 少し浅めのハートの形の、小さな葉っぱが特徴的だ。
 二十数年前に植えられ、地元の商店街の方々が、
 大切に世話をして育てたと聞いている。

 どうしてこの木が植えられたかと言うと、
 この桂という木は、善光寺とゆかりがあるというからだ。
 日本で三番目の大きさの木造建築として、
 国宝となっている善光寺本堂。
 その柱の一部に、この木が使われているからだ。

 それではついでに善光寺まで行ってみよう。
 
 間口が約24メートル。高さは約20メートル。
 いつもながら荘厳な建物だ。

 さて、本堂に登ろうと思って、横の柱を見たら、
 あれっ、土台とずれているぞ。
 ちょうど柱がねじれたようになっている。
 大丈夫なのかな。

 この「ねじれ」は江戸時代後半に起こった、
 善光寺地震の影響と思われていた。
 このあたりは、大きな被害を受けたのだけれど、
 善光寺は大丈夫だったのだね。
 だからこの柱は「地震柱」なんて呼ばれていたんだ。

 でも、その後の調べで、もっとすごい事が分かったのだ。

 ぺんぺんぺんぺん、ぺ〜ん。
(ここより浪曲調でお読み下さい)

 時は元禄13年、西暦にすれば1700年、7月21日。
 善光寺門前の街に半鐘の音が鳴り渡った。
 「火事だーぁ。」
 火は瞬く間に燃え広がった。

 「ああっ、材木に火が回ったぞー。」
 庶民の信仰の厚い善光寺。
 立派な本堂を建てるために、
 七年にわたって二万両もの資金を集め、
 やっとそろえた材木が、
 ああ、この日の火事で、
 ほとんどが灰となってしまったのであった。
 ぺんぺん。

 気落ちした人々の前に現れたのが、
 新しい責任者、慶雲。
 何と、当時の幕府の実力者、柳沢吉保の「おい」。

 厳しい管理と行動力で、
 再び庶民の浄財を集めて諸国を巡る。

 そのかいあって、再び二万両を都合し、
 ついにあっぱれ、善光寺本堂の着工となる。
 木材は、千曲川の上流で集められ、
 川を下って長野にどどんと運ばれた。

 早急に本堂を建てるように命ぜられた
 幕府の棟梁、甲良宗賀(こうらそうが)は、
 浮かぬ顔。
 何しろ、急ぎ集められた用材の数々。
 まだ、十分に乾ききっていない。
 こういう材料を使えば、やがて狂いが生じる。
 ましてや「ねじれ」が出たらどうなろう。
 下手をすれば、軒が傾いてしまうかもしれない。
 
 棟梁は考えた。

 棟梁はまだ考えた。

 棟梁はもっと考えた。

 「おお、そうだ。
 ねじれが出るのなら、その方向を見極め、
 一本おきに違う向きにねじれるように柱を並べれば、
 軒が傾く事はあるまい。」

 見事そうして建てられた善光寺本堂。
 300年経った今も、きりりとその姿を、
 長野の青空に映している。
 考え抜かれた職人の技。
 もの言わぬ柱は、その技術の高さを誇っている。

 そう、入り口の柱のねじれは、
 棟梁の「想定の範囲内」だったのだ。

 ぺんぺんぺんぺ〜ん。(浪曲調おわり)

 さて、桂(かつら)の木は、
 質が均一で加工がしやすいので、
 様々な用途に使われている

 特に仏像や、欄間(らんま)の彫り物、
 鎌倉彫りの材料などとして使われているそうだ。
 そう、身近なものでは、将棋盤かな。
 でも、厚手のものは、近頃は材料がなくて作れないそうだ。

 そして、手打ちをするそば屋の、
 「のし台」にも使われている。
 
 「のし台」には、檜(ひのき)や桜など、
 いろいろな木が使われるが、
 桂の木に勝るものはない、と言われている。
 適当な弾力があり、生地が滑らかに仕上がる。
 打ち傷に強い事も、この桂の木の特色だ。

 もちろん「かんだた」でも、使っている。
 知り合いの大工さんが、よく乾いた厚板を持っていたので、
 それで作ってもらったのだ。
 私のような、細打ちのそばを作るには、
 なくてはならないものだ。

 街路樹の桂の木は、まだ直径10センチぐらい。
 そばの「のし台」に使えるように育つまで、
 あと、50年、60年、
 ひょっとすると百年ぐらいかかるのかもしれない。

 それから丸太のまま十年、
 板にして十年、
 そうして充分乾燥させて、やっとそばの「のし台」になるんだ。
 
 三百年経っても、その偉容を誇る善光寺本堂。
 そのお膝もとに流れる時間も大きなものだ。
 「おおい、早く育てよ。」
 と桂の木に声をかけている、
 私たち人間の時間の、なんと小さなことよ。

「令和」とは、どんな割り箸? (役に立たないそば屋の話4)

 丁六、小判、元禄、天削、利久、卵中。

 ほお、けっこういろいろあるものだ。
 えっ、いきなり、なんかのおまじないかって。

 これは実は、割り箸の種類の名前。
 よく、食べ物屋でお世話になっているけれど、こんなにいろいろあるんだね。

 これに、使う材質の違いがある。
 杉や檜のまさ目を使ったり、白樺や、アスペンと呼ばれる安い輸入材もある。

 日本人の清潔感と実用性にあったこの割り箸の文化。
 調べてみると、明治になって、機械式の製材機が普及してから広まったのだね。
 なんだ、以外に新しい存在なんだ。

 あるグルメ評論家によると、最初に出される箸で、その店の格式が知れるのだそうだ。

 輪島塗の箸置きに、真ん中に帯を巻いた卵中(らんちゅう)と言う箸があれば、
 かなり高級なお店。

 もっといいお店では、出される料理ごとに箸を替えてくれるらしい。
 私は行ったことがありませんので、よく知りませんが。

 割烹店や、高級な寿司屋に出てくるのが利久(りきゅう)。
 これは、両側が細く削られている。
 茶の湯の千利休が、おもてなしのため、わざわざ削ったものだという。
 利休の「休」の字が店では嫌われ、利久の字が使われている。

 備前焼の箸置きに、杉の天削(てんそげ)という、
 箸の頭を斜めにカットしたものがでてくれば
 デートにも、接待にも使えるそこそこのお店。

 和紙の箸袋に、竹の元禄(げんろく)という、四隅を削った箸がでてくれば、
 気の知れた仲間と行く、まずまずのお店。

 アスペンという白っぽい元禄箸がでてくれば、
 職場の仲間と気楽に寄っていくお店。

 小判と言う、外側しか削っていない割り箸が、箸箱にどかんと積まれていれば、
 実用本意の安いお店。

 そう言われてみれば、店によって、 割り箸の種類や出し方が違う。
 それで店の「格」が決まるの言うなら、そば屋の「格」なんてひどいものだ。

 ひと昔前までは、そば屋で使う箸は、丁六(ちょうろく)という、 
 四隅の削っていないものだった。

 せいぜい気取っても小判ぐらいだったようだ。

 これにはしっかりと訳がある。
 角のたった箸で食べれば、そばやうどんが滑らないのだ。

 おまけに、長くて食べにくいような麺、特にうどんの場合など、
 角のある箸で、挟むようにこすれば、簡単に、チョン、と切れるのだ。

 だから、そば屋は、「元禄」のように角の削ってある割り箸を使わず、
 丁六という角のある箸を使っているのだ。
 
 なんてうんちくを、聞かされたことがあった。
 単に、そば屋がケチを隠すための口実じゃないの。

 まあ、今では、どこへ行っても「元禄」がでてくるけど。
 だいぶ値段も下がったので、ケチなそば屋でも使えるようになったのか。

 ケチな話といえば、
 昭和の初めぐらいまでは、使った割り箸を集める業者さんがいたという。

 そば屋に限らず、食べ物屋は、その業者さんのために、
 使った割り箸を別にして取っておいたという。

 そして、その売ったお金が、
 店の女将さんの小遣いになったらしい。
 わずかな金額でも、チリも積もれば、、、というところだろう。

 使った割り箸は、なんと、薪の焚き付けに重宝されたのだとか。
 エコな時代だったのだね。

 エコといえば、十年ほど前には、
 マイ箸のブームがあったね。
 自分の箸を持参しよう。
 飲食店で、使い捨ての割り箸を使わないようにしよう。
 木材の資源を大切にしよう、という動き。

 その頃には、私の店でも、マイ箸を持参するお客様もおられた。
 あるお客様は、
 パリの目抜き通りに本店のある、あのブランドのハンドバッグをご持参。
 その中から、同じマークの箸入れと、箸をお出しになって、
 そばを召し上がっていらした。
 ここまでするとは、あのブランドも商売逞しい。
 
 やがて、割り箸そのものが、
 木材の切れ端を使って作られているエコなものだという認識が広がり、
 その流れは、いつの間にか消えてしまったね。

 
 ある仕出し屋さん、
 お祝いの料理を、お屋敷にお届けした。

 その時、配達の人が、 つい、いつものつもりで割り箸を置いてきてしまった。

 すぐに電話があった。
 「めでたい結納の席に、割り箸とはどういうことだ。」

 こういう時には、最初から分かれている箸を使うものなんだって。
 すぐに箸を替えにいったという話。

 何気なく使っている割り箸だけれど、
 それなりにこだわり、しきたりがあるのだね。

 ところで、今一番使われている割り箸は
 割った時、四隅の角が削られている「元禄」というもの。
 さて、どうしてそんな古風な名前が付いたのだろう。

 う〜ん、これを命名した人はすごい。
 かなりの知識と、同じぐらいの皮肉心を持った人だ。

 時は江戸の元禄時代。
 財政難に陥った幕府は、苦肉の策として、
 金の含有量を大幅に減らした小判を発行した。
 つまり、小判二枚分の金で、三枚の小判を作っちゃったんだね。

 これが元禄小判。
 商人たちにはすこぶる不評を買った小判だった。

 さて、割り箸を作る人。
 今まであった、「小判」という割り箸は 外側の角だけを削ったもの。
 さらに割筋に沿って溝を入れることで、割った時に四隅が削れているようにしたのだね。

 つまり、
 「小判」から木(金)を削って作ったもの。
 だから「元禄」と呼ぶのだと言う。

 これを命名した明治30年ごろの人は、すごい。
 なるほどと感心することしきり。
 
 ならば、いっそのこと、
 もっと木を削ってみたらどうだろう。

 合理化の進む現代には、
 針金みたいに細い割り箸。
 名を「令和」と呼ぶ、、、、、。

 こういうのを、
 「箸にもかからない話」というのかな。
 
 とにかく、
 お店に入ったら、箸にもご注目を。

宮本武蔵はそばを食べたか? (役に立たないそば屋の話3)

宮本武蔵は二刀流を生み出した、
江戸時代の初めの剣豪。

その生涯は吉川英治の書いた長編小説「宮本武蔵」で、
詳しく描かれている。

この小説は、過去に何度も映画やドラマになり、
広く知られている。
誰が主人公を演じるかによって、
印象が変わってしまったりするのだよね。

この小説の中で、
武蔵がそばを食べるシーンがある。

江戸の旅館で、そばを食べるのだが、
その時に、そばに集まってくるハエを、
箸でつまんで取り除いていたという。
えっ、動いているハエを!
ちょうど、武蔵に文句を付けようととしていた隣の部屋の男が、
その様子を見て、
黙って引き上げていったというのだ。

なるほど、
剣豪として研ぎすまされた動きが、
こういうところにも表れるのだ。

この吉川英治の小説が新聞に掲載されたのが、
昭和10年という。
長い物語なので、何年かにわたって連載されたそうだ。

ところがこの小説に噛み付いた、
江戸文化の研究家が居た。

その名を三田村鳶魚(えんぎょ)という。

この人は、
江戸時代を舞台にした、
様々な小説について、
時代考証をして意見を言っていた人なのだ。

三田村の言うことには、
武蔵が活躍したこの時代には、
今食べられているようなそばは、
まだなかったという。
だから、
この、武蔵がそばにたかるハエを箸で捕まえたという、
良く引用される有名なエピソードは、
あり得ない話なのだそうだ。

ソバの栽培は、
五世紀ぐらいから行われたらしい。
でも、それが粉になり、
さらに、長い麺に作られた、
つまり「そば切り」になって広まったのは、
江戸時代中期になってからといわれる。

年代でいうと1700年前後のお話。
今から約三百年前のこと。
ちょうどその頃、
関東でも醤油が造られるようになり、
さかんに出回るようになった。
そうして、その醤油の汁で食べる「そば切り」が、
江戸で人気になったわけだ。

さて、宮本武蔵が江戸でそばを食べたのは、
物語から推定すると1620年頃。
三田村が調べた文献では、
そばが初めて現われるのは、
それより半世紀も後のこと。
だから、
宮本武蔵が、そばを食べたというのは、
へそで茶を沸かすようなもんだ、、、というのだ。

そうか、宮本武蔵は、
そばを食べることはなかったのだ。

ところがどっこい、
これは小説「宮本武蔵」が発表され、
それに三田村が噛み付いたのは、昭和の初めのお話。

戦後になって、さらに、
そばの歴史の研究が進んだ。

そして、なんと、
宮本武蔵と同年代、
1620年頃に、「そば切り」を食べたという記録が、
ある僧侶の日記の中にあることが分かったのだ。
特に珍しいという感じではないので、
すでに、知られている食べ物だったようだ。

さらに、
長野県の木曽のお寺では、
1574年に「そば切り」を振る舞ったという記録が発見される。

ということは、
ひょっとしたら、宮本武蔵はそばを食べたかもしれないのだ。
少なくとも、
三田村のように頭から否定することは出来ないのだね。

さて、真実はともあれ、
小説には小説ならでの面白さがあって、
これは、宮本武蔵のすごさを描いたもの。

私も、箸でハエを捕まえる練習でも始めることにしよう。

花魁の好んだ辛いそば汁(役に立たないそば屋の話1)

 

 
 
 

    紀伊国屋文左衛門 (きのくにや ぶんざえもん)といえば、江戸時代中頃に活躍した材木商人。
 大もうけをして、派手に遊んだという話が伝えられている。
 当時遊ぶといえば、江戸の吉原。
 ここにはきれいな女性が揃い、おいしい食べ物が、豊富にあったそうだ。

 文左衛門は、二千人の遊女がいたといわれる、この吉原の門を閉めさせ、つまり、貸し切りにして、小判をばらまき、豪華に遊んだと言う話が残っている。
 そして「お大尽(おだいじん)」として、江戸中の人々の評判となったそうだ。

 さて、この紀伊国屋文左衛門 と張り合ったのが、同じく材木商の、奈良茂こと奈良屋茂左衛門。
 この人も、ずいぶんと派手な遊びをしたという。

 こんな話が残っている。
 ある時、奈良茂は、お気に入りの花魁(おいらん)に、そばを二枚届けさせた。
 一緒にいた友人が、
 「おいおい、二枚だけということはないだろう。
  よし、俺が、この郭中の人に、そばを振るまってやるよ。」
 そう言って、そば屋にそばを注文した。

 ところが、そば屋は売り切れだという。
 そこで、他のそば屋をあたって見るが、
 どこも、そばはもう無いという。

 実は奈良茂、周りのそば屋のそばをすべて買い取り、たった二枚だけを、花魁に届けたのだ。
 つまり、その日、江戸でそばを食べられたのは、その花魁だけ、、、、、、ということをしたんだね。

 吉原は、江戸にそばを広まらせた、大切な場所の一つだったそうだ。
 江戸で、はじめて「そば屋」が出来たのも、この吉原の中なのだそうだ。
 値段はべらぼうに高かったが、新しいもの好きの人々に受けたらしい。

 その後、花魁の出世の行事などに、そばを振る舞う習慣ができたりして、江戸っ子の中にそばがしみ込んでいったわけだ。

 さて、吉原の三浦屋というところに、几帳(きちょう)という花魁がいたそうだ。
 この花魁、めっぽうそば好き。
 そうして、この几帳のおかげで、江戸のそば汁は辛くなったとか。

 この花魁、なかなか我がまま、いや侠気のあった人だったそうだ。
 店のものが、
 「花魁、永田町の岸田様のお座敷でお呼びです。」
 と迎えに来ても、
 「あの人は、イヤでありんす。」
 と、自分の目に叶う客でないと、断ってしまったそうだ。

 それでも、気に入った客には、いろいろと世話を焼くので、とても人気が高かったとか。
 たいへんなそば好きで、ちょっと間があると、すぐ、そばを手繰っていたという。
 客がいろいろと贈り物をしようとすると、着物以外はそばを贈ってくれと頼んだそうだ。

 そうして、贈られたそばは、店の他の女性達や、働く下女下男にまで振る舞ったという。
 時には、身銭を払って、同じように、そばを振る舞うこともあったとか。

 年季明けの几帳の支払いは、半分はそば屋へのものだったそうだ。
 こういう気っぷの良さは、「はり」があるといって、「いき」とともに江戸っ子に好まれたとか。

 さて、この花魁の几帳。
 そばを食べる時には、辛い汁を好んだのだそうだ。

 折しも、関東で作られるようになった醤油が、江戸に広く出回るようになった時代らしい。
 それまでの江戸では、「下りもの」と呼ばれていた、関西から運ばれてくる醤油が上物とされていたという。

 ところが几帳は、関西の醤油で作った汁を好まなかった。
 そして、
 「そばを食べるには、辛い汁に限る。」
 といって、関東の醤油で作った江戸汁を使った。
 なにしろ、名の通った花魁が言うことなので、それが江戸っ子の中にも広まっていったようだ。

 かくして、そのころの江戸では、辛い汁のことを、几帳の名を取って「几帳汁」とよんだそうだ。

 この人気の花魁を身請けしたのは、最初に紹介した紀伊国屋文左衛門との話。

 文左衛門は後年になって事業に失敗し、最後は質素な暮らしの中にいたという。
 几帳ははたして、好きなそばを食べていられたのかは、わからないのだ。

 今でも東京の老舗のそば屋の汁は、かなり辛めだ。
 そんな辛い汁に当たった時には、かって「はり」のある花魁がいたことを、思い出してみたりしてみてはいかが。